ペーター・ファン・ペルス
父のオットーの同僚のヘルマン・ファン・ペルスの息子であり、アンネの恋人です。当初はアンネとあまり仲良く無かったが、後に恋仲になっています。日記を読むに、他の隠れ家住人とも公然の仲となっていたようです。
しかしゲシュタポに捕まった後は、アンネ達一家と共にアウシュビッツ強制収容所に輸送され、しばらくそこでオットー・フランクと共に労働の従事を余儀なくされました。しかし1945年の1月に、比較的元気だったペーターは、オーストリアの「マウトハウゼン強制収容所」へ移動することになり「死の行進」と呼ばれる移動を余儀なくされました。
この行進は、氷点下20度を下回る温度のなか、薄着で休まず歩いて移動をする過酷なものでした。遅れるものはゲシュタポにより銃殺されたといいます。ペーターは長旅を何とか生き抜きましたが、到着先のマウトハウゼン収容所で赤十字の報告によると、5月5日に死亡しました。これはアメリカ軍に収容所が解放される3日前でした。この時には恋人のアンネも他の収容所で死亡しています。
ヘルマン・ファン・ペルス
アンネの父オットーの同僚の男性であり、アンネの恋人ペーターの父です。隠れ家では、度々フランク一家と衝突しましたが、それでもお祝いを一緒に祝ったり、陽気な性格で住人たちをよく笑わせていたといいます。
逮捕後はフランク一家と共に、アウシュビッツ強制収容所に連行され、到着時は「労働可能」と判断されました。しかしオットーフランクの証言によると、9月5日から6日にかけてガス室に並ぶファン・ペルス氏を目撃したといわれます。その後青酸ガスによりガス殺されたと考えられています。
アウグステ・ファン・ペルス
アンネの恋人ペーターの母です。隠れ家ではアンネと折り合いが悪く、事あるごとに衝突していた様子が描かれています。逮捕後はアンネたちと共にアウシュビッツ強制収容所に連行され、その後ベルゲン・ベルゼン強制収容所でアンネと再会したことまでは分かっています。
その後1945年4月にテレージエンシュタット強制収容所へ送られたことは判明していますが、それ以降は不明。誰も記憶している証言が得られていません。どこかの収容所で死亡したものと推測されています。
フリッツ・プフェファー
ユダヤ系ドイツ人の歯科医で、アンネと同室で潜伏していました。日記では、机の使用権を巡って言い争ったりしている様子が記されています。日記中の偽名は「ディッセル」とされており、ドイツ語で「まぬけ」という意味でした。
ゲシュタポによる逮捕後は、アンネたちと共にアウシュビッツ強制収容所に送られ、その後1944年12月20日にノイエンガメ強制収容所に送られ死亡したことが分かっています。劣悪な環境で餓死・病死したのか、ガス殺されたのかは不明です。死因は分かっていません。
現在のアンネ・フランクの家とは?
現在アンネたちが潜伏したオランダ・アムステルダムの隠れ家は、住んでいた家を利用して「アンネ・フランクの家」と名づけられ、博物館となっています。博物館には、本棚を動かして中に入る隠れ家の様子や、アンネたちの遺品を見ることができます。
1960年に整備されて、現在も年間約100万人が訪れます。管理はアンネ・フランク財団で、人種差別に反対する活動が行われています。日本からも年間約3万人が訪れるということですので、ご興味がある方は是非、オランダ旅行の際に見に行って欲しい場所です。
アンネ・フランクの功績
功績1「『アンネの日記』を残したこと」
アンネの功績を挙げるならば、やはり「アンネの日記」を書き残したことが一番に挙げられます。潜伏生活を克明に記し、自身のユダヤ人としてのアイデンティティや戦争について考える内容は現在でも、私たちに警鐘を鳴らす内容が多く含まれています。
この日記をきっかけにヨーロッパ諸国は元より、世界中で「ユダヤ人」の迫害を知るきっかけを与え、悲劇の内容、そして戦争の悲惨さを考えるきっかけを世界中に与え続けているといえるでしょう。
功績2「ユダヤ人迫害の歴史のシンボルとなったこと」
アンネ・フランクの功績は、「ユダヤ人迫害のシンボル」となったことではないでしょうか。ヨーロッパでは1世紀のローマ帝国時代には既に、「反ユダヤ主義」は存在し長らく迫害されていた歴史があります。
第一次世界大戦の敗北の後の多大な賠償金請求などにより、ドイツ国民は心がぎりぎりの状態でした。そういった時世に標的にされた「ユダヤ人」への「集団ヒステリー」への反省の象徴としてアンネ・フランクはシンボルとなっています。私たちも何がそこまでドイツ人を追い詰めたかを考え、世界平和を考える為のきっかけとなっているのではないでしょうか。