アンネ・フランクとはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や日記、隠れ家も紹介】

アンネの死因はなんだったのか?

シラミやダニを介して感染するチフス菌

先述をしましたが、死因は「発疹チフス」であったといわれます。チフス菌はシラミやダニを通して感染する病気です。不衛生な地に多く見られ、冬期、又は寒冷期に流行する病気です。そのため、古来から戦争・飢饉・収容所などで流行し「戦争熱」「飢饉熱」といわれていました。

元々ポーランドが、歴史的に発疹チフスを繰り返していた土地であったといいます。症状は、発熱・頭痛・悪寒・手足の痛みなどです。頭痛・精神錯乱が強いのも特徴とされます。通常20歳以下の死亡率は5%以下といわれていますが、栄養失調で弱っている囚人達にはひとたまりもなく満足な治療も施されなかったため、アンネも生存できなかったと推察されています。

アンネ・フランクの死因は?強制収容所の生活と共に最後の様子を紹介

アンネ達を密告したのは誰だったのか?

結局誰が密告者だったのか分かっていない

ゲシュタポは密告により出動していました。しかし、今でも誰が密告をしたのかわかっていません。倉庫係ヴィレム・ファン・マーレン、ランメルト・ハルトホ、もしくはその妻で掃除婦のレナ・ハルトホを疑う説もありますが、真相は不明となっています。密告者がはっきりしないことから、近年は偽造された食料配給券の家宅捜索中に偶然にゲシュタポが発見したのではないかという説も流れています。

アンネと隠れた住人達はどうなったのか?

アンネは、フランク一家3名とファン・ペルス一家3名、そしてプリッツ・プフェファーの計8名で約2年間隠れ家に潜伏していました。時には摩擦もしましたが、皆でお祝いをしたり笑って過ごした日々も日記に書かれています。そんなアンネ以外の7人の住人は逮捕後どうなったのか、を解説していきます。

オットー・ハインリヒ・フランク

オットーは隠れ家で唯一の生き残りとなった

アンネの父で、オランダのアムステルダムで香辛料の会社を経営していました。アンネは父を愛し「この世で一番パパを愛している」と日記に書いています。逮捕後は家族と共にアウシュビッツ強制収容所に送られ、オットーは男性収容所に、妻と娘は女性収容所に送られました。これが妻と娘を見た最後になったといいます。

過酷な労働で180センチあったオットーは、体重が52キロまでなってしまいましたが、ペーター・ファン・ペルスに面倒を見てもらったと後年回想しています。しかし比較的元気だったペーターは、1月17日に別の収容所に移送されてしまいました。

晩年のオットー・フランク

その10日後の1月27日に病棟にいたところを、アウシュビッツ強制収容所はソ連軍によって解放されています。しばらく療養したオットーは5月にオランダのアムステルダムに帰りました。そこで従業員のミープから「アンネのお父さんへの形見です」と日記を渡されたそうです。その日記を親戚や友人に見せたいとタイプし直したのが、後に出版される「アンネの日記」となりました。

エーディト・フランク

エーディト・フランク

アンネ・フランクの母のドイツ系ユダヤ人の女性です。隠れ家では、アンネと衝突した様子が頻繁に記されています。隠れ家では完全に母子が和解するまでは至らなかったようです。しかし逮捕後は、かつての不仲が信じられない程3人で寄り添って暮らしたといいます。

少ない食料を娘たちに分け与えていましたが、アンネとマルゴーが他の収容所に移送された後は、精神に異常をきたしたといい、1945年の1月に飢餓の為にアウシュビッツ強制収容所で死去しました。

マルゴット・フランク

マルゴット・フランク

アンネ・フランクの姉のユダヤ人少女です。非常に成績優秀で、アンネはいつも姉と比べられる不満を日記に述べています。逮捕後はアウシュビッツ強制収容所に収監され、しばらく母とアンネと生活していました。

しかしマルゴーとアンネは、母と引き離されベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送されます。この収容所はチフスが萬栄しており、マルゴーたちもチフスに感染してしまいます。姉妹と親しかった囚人の証言によると、マルゴーは寝床から落ちたのが原因で意識が戻らなくなり、やがて死亡したといいます。その数日後にアンネも帰らぬ人となりました。

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