一躍有名になった「アンネの日記」とは?
アンネ・フランクが有名になった「アンネの日記」とは、ナチ党のユダヤ人狩りから逃れる為に隠れた「隠れ家の生活」を活写したものです。執筆は密告によりアンネがゲシュタポに捕まるおよそ2年間に及びました。
1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されています。アンネ達がゲシュタポに逮捕されたのは、最後の日付から3日後の8月4日でした。この日記は隠れ家に隠れていた住人で唯一の生存者となった父オットー・フランクが、戦後アムステルダムに戻ったときに従業員が保管していたものを渡されたものでした。
当初オットーは日記を清書して、アンネに近しい人たちに製本して配っていたといいます。やがてこの本は広く知られるようになり、周囲の声により出版に踏み切ることとなります。初版は1947年にオランダのコンタクト社で発売されました。アンネは隠れ家のことをオランダ語で「ヘッド・アウターハウス(後ろの家)」と名づけていましたが、これがオランダ語版の最初のタイトルとなっています。
その後、1950年にドイツ語訳とフランス語訳が、1952年に英語訳が出版され、イタリア語版、スペイン語版、ロシア語版、日本語版、ギリシャ語版がそれに続きました。1989年と1995年にはそれぞれ新たな英訳が出版され、1995年の英語版は中国語に翻訳され、世界各国で今も重版され続けています。
隠れ家での生活はどうだったのか?
隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、とヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居しました。
「後ろの家」とアンネが名付けた隠れ家は、オットーが経営する会社の3階で、本棚の後ろに隠れた入り口から入ることができました。秘密の入り口を入ると階段があり、ドアを開けてすぐがアンネの父母のオットーとエーディトの部屋で、横に繋がっている細長い部屋がアンネと姉のマルゴーの部屋でした(プリッツ・プフェファーが合流後は、アンネの部屋でマルゴーがオットーたちの部屋に移っている)。
この隠れ家の生活で、アンネは母エーディトと頻繁にぶつかるようになっていたようです。日記にも母への批判が目立ちます。逆に家族でアンネが一番好きだったのが父のオットーでした。日記に「パパだけが私の尊敬できる人です。世界中にパパ以外に愛する人はいません」と書かれています。
また、フランク一家とファン・ペルス一家もしばしば摩擦がありました。ファン・ペルス夫婦は時に「アンネの躾がなっていない」とよくフランク一家に忠告ましたが、こういう時は母エーディトは常にアンネの味方だったといいます。
しかし対立ばかりでなく楽しいこともありました。隠れ家ではお祝いする日を見つけてはすぐお祝いをしています。毎週金曜日に行うユダヤ教の安息日の儀式、隠れ家メンバーの誕生日などでした。最後の方にはアンネは、同じ年頃の男性ペーターと徐々に恋仲になっていき、二人で屋根裏部屋にいる時間が増えています。二人がキスをしたという日も日記に残っていました。
隠れ家での食料は隠れ家の協力者が、店長がレジスタンス活動家だった食料店から購入していました。しかし1944年に入るころには食料を得ることが難しくなり、食料切符があっても食料が手に入らなくなってきました。アンネは日記で「一週間に1、2種類の食事しか食べれない」と嘆いています。医者にかかれないために病気にかかった時には大変でした。1943年にアンネがインフルエンザにかかりましたが、幸い回復しています。
また電力も制限されていたり、暖房が使えないために冬は、コートを重ねたりダンスや体操をして体を温めたといいます。しかし、住人たちは希望を捨てずに過ごしていましたが、8月1日の日記を最後に終わってしまうこととなってしまいました。
アンネが捕まった後はどうだったのか?
1944年の8月4日にゲシュタポが隠れ家に押しかけ、8人は拘束されました。この際、ゲシュタポの質問に黙秘をした、住人の協力者2人も逮捕され10人がアムステルダム南部にあったゲシュタポに連行されています。この時に逮捕を免れた女性従業員ミープが、取り散らかされた部屋からアンネの日記を見つけ出し戦後まで保管していました。この時逮捕された非ユダヤ人の二人は、ドイツの拘置所に送られましたが、後に脱走や釈放をされ戦後生き延びています。
隠れ家の8人は、ユダヤ人絶滅収容所「アウシュビッツ」へと連行されています。この移送で1049名のうちの549人が労働不能としてガス殺されましたが、隠れ家の住人8名は奇跡的に全員「労働可能」に選別されました。アウシュビッツでは男女ともに丸坊主にされるのでアンネも恐らく丸坊主にされ、左腕の囚人番号は詳しい番号は分かっていませんが、恐らくA25060からA25271の間の番号を刺繍されたと考えられています。
アンネとマルゴーとエーディトは女子収容所に収監されました。しかし10月にドイツの敗戦が続き、ソ連がポーランドに迫っているということで、マルゴーとアンネは母と離れて、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られることとなったのです。
ベルゲン・ベルゼン強制収容所はドイツの収容所の中でも、恐ろしく不潔な収容所であり病気が萬栄していました。生き残った証言者によると、トイレもなかったといいます。しかしそんな劣悪な環境の中でも、アンネはベルゲン・ベルゼン収容所で友達を作り、「私にはまだ学ばなくちゃいけないことがたくさんある」と話していました。
11月にファン・ペルス夫人とベルゲン・ベルゼン強制収容所で再会しています。この時に夫人はアンネに学生時代の親友のハンネがいたことを告げます。1945年初めにアンネはハンネと再会しました。この時にアンネはハンネと有刺鉄線越しに再会を喜び、ファン・ダーン夫人と再会したことを報告した後に、「私にはもう両親はいないの」と涙ながらに語っていたといいます。そうして有刺鉄線越しに何回かアンネと話したといいますが、2月頃から姿を見かけなくなったといいます。
この頃のアンネの詳細は生存者の証言を元に推測されるもので、はっきりしたことはわかりませんが、アンネ姉妹はチフスにかかり、3月の上旬までに先にマルゴーが、そして2、3日後にアンネが後を追うように亡くなったといいます。オランダ赤十字には死亡推定日は3月31日となっていますが、それよりも早い2月末か、3月の頭だと推定されています。
皮肉にもこの1か月後の4月5日に、ベルゲン・ベルゼン収容所はイギリス軍によって解放されました。その時、英国将校のピーター・クムーズはこのように報告しています。
「誰もがこの場所に来て、彼らの顔を、歩き方を、弱りきった動きを見るべきだと思う。一日に300人ものユダヤ人が死んでいくが、彼らを救う手立ては何もない。もう手遅れだったのだ。小屋の側にはたくさんの死体が転がっている。囚人たちはせめて太陽の下で死のうと小屋から最後の力を振り絞って出てくる。私は最後の弱々しい『旅』をする彼らの姿を見ていることしかできなかった。」