黒田官兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

黒田官兵衛の功績

功績1「豊臣秀吉を天下人に押し上げる」

織田信長の仇討ちのため、秀吉が驚異的な速さで京へ戻った中国大返し

豊臣秀吉が天下人になったのは、官兵衛の才覚のおかげといっても過言ではありません。官兵衛はいち早く本能寺の変を知り、豊臣秀吉が天下を取れるチャンスが巡ってきたと瞬時に判断をめぐらせ、敵対していた毛利と和睦し、「中国大返し」を実行させたのです。

豊臣秀吉が天下を統一したおかげで、戦乱が続いた日本の歴史に転換点が訪れました。平和な世と言われる江戸時代への橋渡しをしたという意味でも、官兵衛の果たした役割は大きかったのです。

功績2「日本有数のまち”博多”を生み出す」

「太閤町割り」が確認できる博多の旧図

現在も日本有数の都市である博多は、官兵衛がその基礎を築いた “まち” でした。博多は古代から有名な港として栄えていましたが、戦国時代に合戦が続き、すっかり荒廃してしまいました。官兵衛は博多商人にも協力してもらいながら、復興に力を注ぎます。

「太閤町割り」と呼ばれる都市整備は、整然とした碁盤の目のような街並みを生み出しました。今も福岡市博多区冷泉(れいせん)町や御供所(ごくしょ)町にその面影を見ることができます。また、楽市楽座制を導入し、商人に自由に商いをさせて、商人の “まち” としての活気を取り戻したのです。

黒田官兵衛にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「財テクの鬼、黒田官兵衛」

軍師としての戦略や軍略、あるいは交渉力に関する逸話が有名な官兵衛ですが、実はその財テクもかなりの物だったそう。

当時、主君が部下に対して物を贈るときは「下賜」として無料で与えることが一般的でしたが、官兵衛は殆ど下賜をすることなく、身の回りのいらなくなったものは、家臣に対して売り下げ、その代金をもって蓄財に励んでいたようです。

お金にはシビアなところがあった?

今の考え方からすると、官兵衛の行動は「ケチ」と取れます。実際、「売り下げずに下賜すればよろしいのでは?」との声はあがっていたようです。当時の価値観からすると、主君から下賜されるということは、家臣にとっての誇りとなるのですから、猶更です。

しかし官兵衛は「下賜してやりたいが、品物には限りがある。貰える者と貰えない者がいては、そこには不公平さが生まれ、それは巡り巡って皆の士気にも悪影響を及ぼす。だから、買いたい者は買い、いらない者は買わなければよいのだ」と答えたそう。堅実な財テクと家臣たちの士気を考えた、官兵衛らしい合理的かつ人間的な思考だと言えるでしょう。

そんな倹約家な官兵衛ですが、金の亡者と言うわけではなく、使うべき時には大規模にお金を使っていた様子。

中央で関ケ原の戦いが起こっていた頃、九州を我が物とすべく兵をあげた官兵衛でしたが、その際には貯め込んだ財を一気に解放。一説では、関ケ原に参戦していた息子、長政の軍勢以上の数の兵士を、瞬く間に集めたと言われています。

都市伝説・武勇伝2 「築城や連歌のプロフェッショナル、黒田官兵衛」

官兵衛は、軍略や財テクのみに留まらず、城の建築や、連歌など、様々な分野にも精通していたと言われています。

築城の腕に関しては、秀吉から非常に高く評価されていたようで、秀吉の居城であった堅城、大阪城の設計にも携わったと言われています。

『大坂夏の陣図(黒田屏風)』に描かれた大坂城天守閣

また、秀吉の配下である猛将であり築城の名手、加藤清正(かとうきよまさ)からも、「自分の作った城は3日ほどで落城してしまうが、官兵衛殿の作った城は30日は落ちない」と、その築城の手腕を絶賛されています。

連歌の腕前に関しても、文武両道で知られる細川幽斎(ほそかわゆうさい)、羽州の謀略家として名高い最上義光(もがみよしあき)と並び、当時の武将の中でもトップクラスの実力を持っていたそうです。

軍略、築城に優れ、一財を成す堅実な経済的テクニックを持ち、連歌による芸術的な雅を解する人物。黒田官兵衛が多芸多才な人物であったことに、疑いを挟める余地はないでしょう。

黒田官兵衛の簡易年表

1546年
黒田官兵衛、誕生

1546年12月22日、黒田官兵衛は播磨国・姫路で誕生しました。幼名は万吉。播磨の勢力、小寺家の家老である父の下、嫡男として育てられていきます。

1559年
母の死

母の死によって悲しみに暮れた官兵衛は、引きこもって和歌や連歌に耽溺。武士として生きることを捨てたようなその状況は1年ほど続きますが、近隣の僧、円満から諭され、官兵衛は文武両道の道へと歩み出します。

1561年
元服。小寺政職の近習に抜擢

官兵衛の能力を高く評価した主家の当主、小寺政職によって、元服直後かつ初陣も経験していない身ながら、近習へと取り立てられます。よく知られる「官兵衛」の名を彼が名乗り始めたのも、このあたりからです。
政職は官兵衛の能力を高く評価していたようで、自身の姪である櫛橋光を官兵衛に娶らせるなど、何かと厚遇していたことが記録によってわかっています。

1562年
官兵衛、初陣を飾る

当時の官兵衛は17歳。少し遅めの初陣でしたが、父と共に浦上宗景(うらがみむねかげ)との戦いへ出陣し、見事に勝利を収めています。

1564年
婚礼への襲撃。官兵衛の妹が討たれる

室津(現在の兵庫県)の勢力、浦上家の婚儀を、敵対勢力である赤松政秀の軍勢が襲撃。浦上清宗(うらがみきよむね)と、その父である浦上政宗(うらがみまさむね)、そして清宗と婚儀を上げていた官兵衛の妹(一説では姉とも)が殺害される事件が発生します。

1567年
官兵衛、黒田家の当主に

この頃、官兵衛は小寺政職からの勧めによって、櫛橋光と結婚。生涯ただ一人の妻として、官兵衛を支え続ける才女を、黒田家に迎え入れることになります。
さらに、官兵衛の結婚と時を同じくして、父である黒田職隆が隠居を表明。官兵衛は父から、家老の職と姫路城を受け継ぎ、黒田家の若き当主として立つこととなるのでした。

1568年
長男、松寿丸の誕生

この年に、官兵衛と光の間に、長男である松寿丸が誕生。後に黒田長政となるその子は、武芸で名を馳せる豪傑として、歴史に名を残すこととなるのです。

1569年
青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)勃発

将軍、足利義昭の勢力となった織田信長が、播磨を平定すべく、2万もの軍勢を伴って侵攻を開始。官兵衛の預かる姫路城は、将軍の軍勢であり、妹の仇でもある赤松政秀の軍勢に攻められ、窮地に陥ります。
敵軍3000人に対し、自軍300人という絶体絶命の状況の中、官兵衛は奇襲戦を展開。反織田勢力の援軍にも助けられ、多大な犠牲を払いつつも、官兵衛は姫路城を守り切ることに成功します。

1575年
官兵衛、織田家の配下へ

主君、小寺政職に対し、官兵衛は織田家への臣従を進言。織田家ではなく、毛利家に臣従することも考えたようですが、官兵衛は「織田家の方が天下の覇者になり得る」と考えたようです。
その進言を受けた政職は、官兵衛を使者として信長のもとへ送り出します。信長と謁見した官兵衛は、その智謀をたいそう気に入られ、名刀「へし切長谷部」の下賜を受けた他、播磨攻略の副官として任じられたとの逸話も残っています

1577年
秀吉の参謀として、頭角を現す

織田の旗下に入った官兵衛は、出世頭、羽柴秀吉の配下として頭角を現します。3月の英賀合戦では、敵軍5000の兵を、自軍500人で退けた他、松永久秀(まつながひさひで)との決戦となった信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)では、秀吉に姫路城を提供し、以降彼は、秀吉の参謀として名を知られるようになっていきます。
また、この年には長男である松寿丸(後の黒田長政)を、織田家への人質として信長のもとへ送ります。この人質が、後の竹中半兵衛とのエピソードに繋がることになるのです。

1578~1579年
荒木村重の手で、囚われの身に

前年の10月に、中国攻めが開始。秀吉がその総指揮官に任じられると、官兵衛は秀吉の参謀として、調略や交渉役として織田の勝利に貢献しました。
しかし、織田から離反した荒木村重(あらきむらしげ)との交渉には失敗。官兵衛は捕えられ、劣悪な環境の地下牢へ幽閉されてしまいます。救出されるまでの1年もの間、幽閉され続けた官兵衛は、救出されたころにはボロボロになっていたらしく、髪は抜け落ち、頭にはひどい瘡ができ、左足の関節には障害が残ってしまったそう。
また、官兵衛が虜囚となっている中、盟友である竹中半兵衛は陣中で病没。二人の軍師が再会を喜び合うことは、残念ながら出来なかったようです。

1580年
主家、小寺家の敗走

官兵衛の主家である小寺家も、混沌とした中国攻めの情勢を好機と見たのか、荒木村重の謀反に乗じる形で、織田家へ謀反を起こしますが、失敗。
小寺政職は敗走し、官兵衛の主家であった小寺家は滅亡状態に。これにより官兵衛は、名実ともに織田家に仕える武将となります。また、このあたりから官兵衛は自身の苗字を「黒田」としています。

1582年
本能寺の変と、中国大返し

中国攻めが終わりを迎えようとする中、突如として京都、本能寺にて明智光秀が謀反。信長の死を知り、呆然とする秀吉に、官兵衛は毛利輝元との和睦を進言。それを受諾した秀吉は、中国大返しを成功させ、信長の後継者として天下に声を上げるのでした。
余談ですが、信長の死を知って呆然とする秀吉に対し、官兵衛は「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」と声を掛けたそう。官兵衛の野心家な一面が分かる言葉ですが、この一言のせいで、官兵衛は終生、秀吉に警戒され続けることになるのでした。

1583年
大阪城の築城に携わる

賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を下し、名実ともに信長の後継者となった秀吉。時を同じくして、官兵衛はその居城である大阪城の築城に携わることになります。
官兵衛が携わったのは”縄張り”と呼ばれる、全体像の設計の部分であり、その設計がどれだけ優れていたのかについては、後の世に起こる大阪の陣が、記録として何より物語ってくれることとなります。

1585年
四国攻めと、キリスト教への入信

勢いを強める秀吉は、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が治める四国へ侵攻。官兵衛は宇喜田秀家(うきたひでいえ)の軍監として参戦し、元親の策略を見抜くなどの、軍師らしい活躍を見せます。
また、周囲からの勧めもあってキリスト教に入信。洗礼名として「シメオン(ドンシメオン)」の名前を与えられています。

1586年
勘解由次官への叙任と、九州征伐の開始

この年、官兵衛は勘解由次官(かげゆじかん)に叙任されています。
また、秀吉は南部を平定すべく、九州へと侵攻。秀吉への臣従を示した大友宗麟(おおともそうりん)からの要請で、薩摩を治める島津家との戦が勃発。官兵衛も宗麟の求めに応じて、軍監として九州へ向かいます。

1587年
九州平定が完了。12万石の大名に

島津家との戦は、秀吉の勝利に終わり、九州は秀吉の物に。官兵衛は豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)の殆どを占める、12万石の領地を与えられます。
官兵衛の働きに比べると小さすぎる領地でしたが、これは一説によると、官兵衛の謀反を恐れた秀吉が、官兵衛に大きな領地を与えるのを嫌がったから、と言われています。

1589年
家督を息子に譲り、秀吉の側近として仕える

黒田家当主の座を息子、黒田長政(くろだながまさ)に譲った官兵衛は、以後、秀吉の側近として彼に仕えていきます。

1590年
小田原征伐勃発。無血開城のために動く

秀吉の天下を決定づける対戦、小田原征伐が勃発。
官兵衛は小田原城を無血開城させるべく、北条氏政(ほうじょううじまさ)、氏直(うじなお)親子を説得。それが功を奏し、小田原城は無駄な血を流すことなく開城されることとなります。
この時の官兵衛の手腕を、秀吉はたいそう褒め称え「官兵衛のおかげで小田原征伐が終了した」と、長政にあてた朱印状に残しているほか、敵方であった北条氏直からも、北条家の家宝であった名刀「日光一文字」を譲り渡されたとされています。

1592年
文禄の役に参戦するも、病を理由に帰国

秀吉の命により、官兵衛は、総大将である宇喜田秀家の軍監として朝鮮へと出兵。しかし、加藤清正(かとうきよまさ)と小西行長(こにしゆきなが)の暴走なども手伝って、的確な指揮を執ることができず、病を理由にして帰国してしまいます。

1593年
再びの朝鮮出兵と、出家

再び朝鮮に渡った官兵衛でしたが、今度は秀吉の立てた策の是非について、石田三成らと対立。無謀な作戦を直接諌めるべく帰国するも、秀吉からは「軍令違反だ」と罵られ、朝鮮へと追い返されてしまいます。
やむなく朝鮮へと戻り、城郭の建築などに携わる官兵衛でしたが、同年の8月に突如として出家。名を「如水軒円清(じょすいけんえんせい)」と号して、剃髪してしまいます。
その際の官兵衛は死を覚悟していたようで、息子である長政に向けて遺書まで用意していたようですが、なんとか秀吉に赦され、九死に一生を得ることとなりました。

1598年
豊臣秀吉の死

官兵衛の主君であり、天下人であった秀吉がこの世を去り、天下の趨勢は一気にきな臭いものに。徳川家の台頭と、それに反目する勢力とのいがみ合いが各地で起こり、天下は再び乱世へと突入していこうとしていました。
そんな天下の情勢について知らせてきた吉川広家(きっかわひろいえ)に対し、官兵衛は「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」――つまり、天下を揺るがす大きな戦があるだろうと、後の関ケ原の戦いを予見する手紙を送っています。

1600年
関ケ原の戦い、勃発

関ケ原の戦いでは、黒田長政率いる黒田軍は東軍として参戦。秀吉に恩のある武将たちを数多く東軍に引き込み、かつ武功を立てて活躍しました。
一方、九州に待機していた官兵衛も、突如として挙兵。瞬く間に9000人もの即製軍を作り上げ、九州各地を転戦。黒田家の領土を広げていきました。
この時の官兵衛の挙兵は、関ケ原の戦いに乗じて、天下を狙うための挙兵だったとも言われていますが、実際には天下を狙う野心からではなく、単純な領土の拡張を狙っての出陣だったと、現在では言われています。

1601年
大幅な加増を辞退。隠居生活へ

関ケ原の戦いでの活躍により、息子である長政は12万石から52万石への大幅な加増とともに、秀吉の朝鮮出兵に基づいて整備された要地、福岡への移封が決定。
その父である官兵衛に対しても、家康は東国や中心部への移封と加増を提案しますが、官兵衛はこれを辞退。以降の官兵衛は、政治など、天下の趨勢に関わることのない、穏やかな隠居生活を送ります。
隠居した官兵衛は、幼い頃に好み、その道を夢見た和歌や連歌を再開。この時代の武将としてはトップクラスの腕前と称された他、屋敷に町の子供たちを招き入れ、思う存分遊ばせたり、ふらりと街に出向いては子供たちにお菓子を配って回ったりと、子供好きで穏やかな好々爺として、多くの人々から親しまれたようです。

1604年
黒田官兵衛、穏やかに逝く

1604年4月19日、京都の伏見藩邸にて、官兵衛は静かに世を去りました。享年は59歳。祈祷文とロザリオを胸に置き、家臣との絆の証を懐に入れての、穏やかな死であったそうです。
官兵衛の葬儀はキリスト教の形式で行われ、遺体はキリスト教墓地の近くの林に埋葬されたと伝わっています。
また、官兵衛は、自分の死に伴う家臣の殉死を遺言で禁止。これにより、優秀な家臣団を数多く残すことになった黒田家は、紆余曲折がありながらも、長く福岡藩を統治していくこととなるのでした。
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