黒田官兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

黒田官兵衛の人間関係は?

官兵衛とかかわりの深い人物と言えば、やはり先述した「二兵衛」の片割れ、竹中半兵衛の名前が真っ先に上がることでしょう。

竹中半兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

名前の「兵衛」のみならず、秀吉に仕え、知略をもって乱世に名を残した名将という点からも、なにかと共通点の多い二人ですが、彼らが共に戦った戦場は、実のところほとんどありません。

その戦場と言うのも、半兵衛の晩年であり、官兵衛が織田家に仕えて数年の頃である、1577年の中国攻めの戦場の間。それも中国攻めが始まってから、官兵衛が囚われの身になるまでの短い期間だけであり、天下に名高い軍師二人が戦場に並び立ったことは、実際のところ殆どなかったようです。

しかし、戦場の外での彼らの親交は深かったようで、血気に逸りがちだった若かりし頃の官兵衛を厳しく諌める半兵衛の話など、その親交を示すエピソードは多く残っています。

岐阜県垂井町にある銅像

半兵衛と官兵衛のエピソードのうち、特に有名なものとしては、敵対勢力に囚われ、音信不通となった官兵衛の謀反を疑った信長の、「官兵衛の息子、松寿丸を殺せ」と言う命令から、半兵衛がその息子を密かに匿ったと言うエピソードがあります。

官兵衛が助け出されたころには、既に半兵衛は肺の病でこの世を去ってしまっていました。しかし官兵衛は、息子を助けてもらった恩を忘れることなく、半兵衛の息子の竹中重門(たけなかしげかど)の後見人を務めた他、半兵衛の形見として譲渡された軍団扇と軍配を、終生大事に扱ったそうです。

また、半兵衛と官兵衛の絆は、彼ら自身の代だけにとどまらず、関ケ原の戦いでは、半兵衛の息子、竹中重門の軍勢と、官兵衛の息子、黒田長政(くろだながまさ)の陣営が、隣り合わせに布陣していたことも記録されています。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の出会いや関係は?友情がわかるエピソードも紹介

半兵衛の他には、毛利家の軍師であった小早川隆景(こばやかわたかかげ)とも仲が良かったことが記録に残されています。もっとも、織田家と毛利家は敵対関係でもあったので、友人と言うよりも、ライバルと言った方が正しいかもしれません。

絹本著色小早川隆景像

隆景は官兵衛に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と、賞賛とも諫言とも取れる言葉を贈っています。

官兵衛も、晩年に隆景の死を知らされた際には「これで日ノ本に賢者はいなくなった」と嘆きを口にしたとされ、両者の親交と、互いに対する高い評価を読み取ることができます。

黒田官兵衛の人物像は?

軍師として名が知られ、その知略で信長や秀吉から重用された官兵衛。軍師らしい頭の回転の速さと、1年もの間汚い地下牢に監禁されても屈さなかったド根性を持つ官兵衛ですが、その本質は、中々に強かな野心家でもあったようです。

その野心的な一面を示すエピソードに、中国大返しの際の一幕のエピソードがあります。

錦絵 本能寺焼討之図

明智光秀の謀反によって、織田信長が本能寺で自害。その知らせを受けてショックで呆然とする秀吉に対して、官兵衛は冷静でした。冷静に状況を分析した官兵衛は、呆然とする秀吉に対してこう告げます。

「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」

と。結果として光秀を討ち、信長の後継者となった秀吉は、瞬く間に日本全土の勢力を掌握。官兵衛の言った通り天下の覇者となるわけですが、それはあくまで結果論。

主君を喪ってショックを受ける自分に対し、あまりにも冷徹に次に進むべき道を提言した官兵衛に対し、秀吉は信頼を置くと同時に、ひどく彼を恐れるようになったと伝わっています。

歴史書にも、晩年の秀吉が家臣に対し、「儂の次に天下を取るのは官兵衛だ」「奴に100万石も与えれば、儂が生きているうちにでも天下を取るだろう」と口にしたと記録されており、事実、秀吉から官兵衛に与えられた石高は、その功績と比べるとあまりにも少なく、秀吉が如何に官兵衛を恐れていたのか、その数字からも読み取ることができます。

しかし、秀吉にも恐れられた野心家な一面の一方、戦の外での官兵衛は、とても優しく、気配りのできる人物だったそう。

妻である光ただ一人を終生愛し続け、隠居後には城下の子供たちに屋敷を解放し、思う存分遊ばせただとか、城下にふらりと出向いては、貧しい子供たちにお菓子を配り歩いただとか、父である職隆同様、人間的に優れた様子を示すエピソードが数多く残されています。

官兵衛の妻「櫛橋光」

また、部下に対しても慈悲深く接していたようで、部下を叱ることは殆どなく、叱る時も猛烈かつ手短に叱った後、簡単な仕事を申し付けるなどのアフターケアを忘れない。戦のために兵を集めた際、支度金を二度受け取ろうとした者にも、何も言わずに笑って二度目の支度金を与えるなど、理想の上司ぶりを示すエピソードが数多く残っています。

かたや野心的な天才軍師。かたや妻子や民、部下たちを愛する名君。秀吉が信頼し、何より恐れた鬼謀の軍師には、どうやら様々な側面があったようです。

黒田官兵衛とキリスト教の関係は?

黒田官兵衛の印象

1583年、官兵衛はキリスト教に入信し、洗礼名を与えられています。洗礼名はシメオン。入信には、キリシタン大名として有名な高山右近(たかやまうこん)からの勧めが大きく影響したようです。

しかし入信からほどなくして、秀吉がバテレン追放令を発令。抵抗した高山右近らが次々と罰せられる中、官兵衛はすぐに棄教してしまいます。

これだけを見ると、官兵衛の信仰はそれほど厚くなかったように見えますが、キリスト教の教えの中に「命を大事にする」と言うものがあるため、官兵衛の行動は、それを守ったが故のものとも見ることができます。

事実、官兵衛の葬儀はキリスト教の形式で行われているため、官兵衛は信仰を捨てたのではなく、教義を守るために教えを捨てたように見せかけた、というのが、現在の定説となっています。

黒田官兵衛の死因は?

官兵衛の死は、戦国から江戸への過渡期、1604年の4月に訪れました。享年は59歳。祈祷文とロザリオを胸の上に置き、家臣との絆の証を懐に入れての、安らかな死だったそうです。葬儀は官兵衛の遺言に則って、キリスト教の形式で行われ、その遺体はキリシタン墓地の近くの林に埋葬されたと記録されています。

官兵衛の死因について、正確なことは分かっていません。

黒田官兵衛の墓

没する半年ほど前に、有馬温泉に療養のために滞在していたことは記録されていますが、何の病気の療養だったのか、そもそも死因は病だったのか、という事も含めて、正確な事は分かっていないようです。

また、官兵衛は遺言で、家臣の殉死を禁止。これにより、官兵衛の息子である長政のもとには、官兵衛と共に乱世を生き抜いた、優秀な家臣たちが揃うことになります。

死に際して尚、家の事や息子の事、家臣たちのことを思い、黒田官兵衛はその生涯を静かに終えたのでした。

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