1587年 – 42歳「九州平定が完了。12万石の大名に」
九州平定
4月、抵抗を続けてきた島津家が遂に降伏。九州は秀吉の支配地となり、秀吉の意向は日ノ本南部においては盤石なものとなります。九州平定の戦後処理の際には、官兵衛はその事務方としての能力を発揮。後に朝鮮出兵のための要地となる博多の復興を、石田三成と共に監督しています。
豊前国12万石の大名に
九州平定での功績から、秀吉が官兵衛に対して与えたのは、豊前国の殆どである、12万石の領地でした。大幅な加増ではありましたが、今までの官兵衛の働きに比べると、それに見合った大きさではなかったようで、黒田家の家臣団からも不満の声が上がっていた、という逸話が残っています。
この功績と評価の隔たりに関しては、秀吉が官兵衛を恐れ、大きな領地を与えることを痛がったから、と言う説が有力です。また、豊前に移って早々、豊前の国人たちと、九州平定によって改易されたことに不満を持つ勢力による一揆も勃発。息子である長政が鎮圧に乗り出すも、これは失敗におわってしまいます。その失敗を受けた官兵衛は、やむなく持久戦の構えを取り、徐々に一揆を鎮圧していきました。こうして九州の大名となった官兵衛。しかしそのスタートは、順風満帆なものとはいかなかったようです。
1589年 – 44歳「息子・長政に家督を譲る」
家督を譲り、秀吉の側近へ
九州の平定も終わり、黒田家の居城となる中津城も完成。国人らによる一揆もなんとか平定し終えた官兵衛は、44歳と言う若さで、黒田家の家督を息子に譲り渡してしまいます。一説では、家督の譲与と一緒に隠居してしまうのでは、と考えた秀吉から慰留も受けたようですが、官兵衛に隠居の考えはまだありませんでした。
家督を息子に譲り渡した官兵衛は、中津城を息子に任せ、自身は大阪屋敷や京屋敷を拠点に生活。黒田家当主としてではなく、側近として引き続き秀吉に仕えるのでした。
1590年 – 45歳「小田原征伐。堅城を無血開城させる」
小田原征伐
この年、秀吉の天下を決定づけることになる大戦、小田原征伐が勃発。小田原を治める北条家は、武田信玄や上杉謙信と競り合った先代、北条氏康(ほうじょううじやす)の代から比べると、明らかに弱体化していましたが、その居城である堅牢な戦城、小田原城の防備は健在でした。
城の堅牢さを当てにして立てこもる北条。単純に激突しては敵にも見方にも大損害が出る状況でしたが、官兵衛はここで、その交渉力を発揮します。
小田原城の無血開城
立てこもる北条家の当主、北条氏直(ほうじょううじなお)と、その父である北条氏政(ほうじょううじまさ)に対して、官兵衛は使者として接近。彼らの説得を試みます。
秀吉に従うことで、北条家の再興への道が開けるかもしれない。その説得が功を奏したのか、北条家は小田原城を開城。ここに秀吉の天下が決定づけられます。
この時の官兵衛の働きは、敵味方問わず賞賛されており、秀吉からは、息子の長政に対してあてた手紙に「官兵衛の働きのおかげで、小田原征伐が成し遂げられた」という感謝の言葉が残されています。
また、敵方であった北条氏直からも、北条家の家宝である名刀「日光一文字」を譲り受けたと言われています。
1592年 – 47歳「文禄の役に出兵。しかし……」
文禄の役
日ノ本の統一を成し遂げた秀吉は、朝鮮への出兵を計画。その側近であった官兵衛も、総大将である宇喜田秀家(うきたひでいえ)の軍監として朝鮮に渡りました。
しかし、文禄の役の戦場では、平時より不仲で有名だった加藤清正(かとうきよまさ)、小西行長(こにしゆきなが)の二名が、互いへの嫌悪感を優先させてしまい暴走。
個々で見ると優秀な武将である彼らの暴走によって、思うように指揮を執れない官兵衛は、病であるという理由を付けて、日本へと帰国してしまいます。
1593年 – 48歳「再び朝鮮へ。そして出家」
再び朝鮮へ出兵
病を理由に帰国した官兵衛でしたが、秀吉に命じられ、再び朝鮮へ渡ることになります。
しかし今度は、秀吉が計画した侵攻計画に関して、石田三成や増田長盛(ますだながもり)らと対立。その無謀な計画を諌めるべく帰国し、秀吉に直談判を行うも、秀吉からの答えは予想もしないほど冷酷なものでした。
「こんなところで何をしている」
「お前がここにいるのは、軍令に反しているという事だ。直ちに朝鮮へ戻れ」
秀吉からの冷酷な叱責を受け、やむなく朝鮮へとんぼ返りをする羽目になった官兵衛。当初こそ城郭建築に携わっていた官兵衛ですが、同年8月、彼はある決断を下します。
出家。名を「如水」と改める
8月、官兵衛は突如として剃髪。名を「如水軒円清」と改め、仏門の道に入ります。この出家の理由については、先述した石田三成らとの確執が原因となっている、と言う説が有力です。官兵衛と三成一派の対立は、きっかけこそ侵攻計画についての物でしたが、実際のところは、豊臣政権下における主権争いをするために、三成一派から仕掛けられたものであったようです。
そのため、官兵衛は秀吉に対する弁明の機会すら奪われてしまい、その危機を脱するために剃髪し、仏門に入る道を選んだ、というのが現在における通説となっています。
出家した官兵衛は、死罪を覚悟し、長政に対して遺書も書いていたようですが、結果として秀吉からの咎めはなかったようで、官兵衛は九死に一生を得ることになるのでした。
1598年 – 53歳「天下人秀吉、堕つ」
秀吉の死と、情勢の緊迫化
8月、天下人である秀吉が死去。秀吉の死をきっかけに、豊臣政権内部の権力闘争は激しさを増し、天下の情勢は加速度的にきな臭いものへと変貌していきます。
秀吉の死を受けた官兵衛は、そのことを知らせてきた吉川広家に対して、「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と、後に起こる天下を揺るがす大乱――関ケ原の戦いの勃発を予見するような手紙を送っています。
1600年 – 55歳「関ケ原の戦い、勃発」
関ケ原の戦い、勃発
秀吉の死去以降、豊臣政権内部では徳川家康が台頭。それに不満を持つ石田三成らとの確執を深めていきました。その対立に、かねてより政権内部で対立していた武断派と文治派の対立も重なり、豊臣政権はもはや内部から瓦解した状況に追い込まれて行きます。そのような対立の中、1600年、家康が上杉討伐を諸大名に命じると、家康に反発する三成が、それを阻止すべく挙兵。両軍は関ケ原でぶつかり合うことになり、天下分け目の決戦、関ケ原の戦いが勃発するのでした。
関ケ原にて、黒田家は?
黒田家は、当主である長政が関ケ原に東軍として参戦。多くの勢力を東軍へと引き込む活躍をしたほか、槍働きでも活躍。家康からその働きを絶賛されたという逸話が残っています。
関ケ原の戦いにて、官兵衛は?
黒田長政が関ケ原に出陣している最中、官兵衛も東軍として九州で挙兵。ため込んだ財を解放して、関ケ原にいる本軍よりも大人数な即製軍を編成。九州の西軍勢力を押さえつつ、黒田家の領土を拡張するために、九州各地を転戦します。
この時の挙兵の理由に関して、「関ケ原で家康と三成が争っている中、九州を押さえてそこから天下を狙うつもりだった」とする、「官兵衛の野心による挙兵」説がありますが、現在ではその説は下火のよう。この時の挙兵は、単純に黒田家の領土を広げるための挙兵だった、と言う説の方が、現在では通説となっています。
しかし一方で、関ケ原の戦い後、官兵衛が吉川広家にあてたとされる手紙には、「関ケ原の戦いがあと1カ月でも続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しく戦うつもりだった」と書かれており、「官兵衛の野心による挙兵」説が、一概には否定できない要因となっています。
1601年 – 56歳「大幅な加増を固辞。穏やかな隠居生活へ」
黒田家の大幅加増と、官兵衛への誘い
関ケ原の戦いで華々しく活躍した、黒田長政ら黒田家の面々。その活躍は家康の目にも止まっていたらしく、黒田家は豊前国中津の12万石から、秀吉の朝鮮出兵に際して整備された要地、筑前国名島(福岡)の52万石への大規模な加増と移封が決定されます。
次いで、家康は官兵衛に対しても、江戸近辺や東国への移封と大規模な加増を提案。しかし官兵衛はそれを辞退し、以降は戦にも政治にも関わらない、穏やかな隠居生活へ入っていきます
穏やかな隠居生活
戦とも政治とも無縁な隠居生活は、晩年の官兵衛にとってはとても穏やかで、有意義なものであったようです。
彼は隠居後の住まいであった屋敷の門戸を開放し、町の子供たちを入れて存分に遊ばせていたそうです。当然、住まいを汚されることや、障子などを壊されることもあったようですが、官兵衛はそれら全てを鷹揚に許し、決して子供たちに怒鳴り散らすようなことはなかったと伝えられています。
また、ふらりと街に赴いては、城下の子供たちにお菓子を配って歩いていたという、微笑ましいエピソードも残っています。また、幼いころから好んでいた連歌も再開。そのセンスは当時の武将としてはトップクラスの物であったようで、細川幽斎(ほそかわゆうさい)、最上義光(もがみよしあき)らと並ぶ、戦国時代における連歌の名手として名が知られています。
1604年 – 59歳「天才軍師、穏やかに逝く」
黒田官兵衛、静かに逝く
1604年4月19日。黒田官兵衛は、京都の伏見藩邸で、静かにこの世を去りました。享年は59歳。祈祷文と十字架を胸の上に置き、家臣との絆の証を懐に収めたままでの、穏やかな死だったとされています。
辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。「この世に思い残すことは何もない。あとは迷うことなく、あの世へと旅立つだけだ」と詠んでいることからも、官兵衛の死が、穏やかで満ち足りたものだったことが伝わるでしょう。
官兵衛の死因については、詳しい原因は分かっていません。亡くなる半年ほど前に、有馬温泉に療養に行っていたという記録は残っているため、何かの病による死だと言われていますが、何の病なのか、はたまた死因はその病だったのかについても、正確なことは分かっていないようです。
官兵衛の遺体は彼の遺言に従って、キリスト教の形式で送られました。墓もキリスト教墓地の近くの松林に建てられ、彼の遺体はそこに埋葬されたそうです。
こうして官兵衛はこの世を去ったのですが、彼は死の間際まで、様々なことを息子や家臣たちに遺しています。
官兵衛の死に支度(息子編)
死ぬ直前の官兵衛は、たいそうな偏屈爺に変貌していました。仕えて長い家臣たちからの諌めも聞かず、些細なことで癇癪を起す官兵衛に、家臣たちは困り果ててしまいます。
あまりの横暴さに困り果てた家臣一同は、長政に相談。この事態を重く見た長政は、父である官兵衛を呼びつけ、叱ります。
しかし、叱られた官兵衛は長政に対してこう返したのです。
「それこそが儂の望むところだ。先代である儂が嫌われるだけ嫌われてから逝けば、今の当主であるお前は、儂と比べてとても名君であると映る。そうすれば家臣たちは、一層の忠節をお前に対して尽くしてくれるだろう」
まさに深謀遠慮。自らの死後の黒田家、そして子である長政のことを考える、官兵衛の優しさと頭脳が何より表れたエピソードであると思います。
また、官兵衛は自身の死後、遺言によって家臣の殉死を禁止。これにより長政のもとには、戦国乱世を生き抜いた盛況かつ忠義に厚い家臣たちが集うこととなり、黒田家は以後長い間、福岡藩を治めていくこととなるのでした。
官兵衛の死に支度(家臣編)
栗山善助と母里太兵衛の義兄弟の契りは、先述した通りです。織田信長が台頭する時代から、戦国乱世の終結まで。その長い戦乱の時代を、官兵衛と共に生き抜いた彼らは、ある日、官兵衛から呼び出しを受けます。
二人を呼び出した官兵衛は、ある古びた紙を見せて、こういったそうです。
「これはあの時、お前たちが義兄弟の契りを結んだ時の誓紙だ。本当ならもうお前たちに返さねばならないだろうが、この紙は最後まで、お前たちの義兄弟の契りを守ってくれた。この頼もしい誓紙を、儂は是非とも冥土まで持っていきたいと思っている。すまないが、儂が死んだらお守りとして、この紙を棺に入れてほしい」
そう言って笑った官兵衛は、3人の絆の証である誓紙を、大事そうに懐にしまったそうです。
黒田官兵衛の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
軍師の門 上 (角川文庫)
半兵衛、官兵衛の「両兵衛」をメインに据えた小説作品です。
上巻では半兵衛、下巻では官兵衛がメインで活躍し、二人の軍師の対比構造が分かりやすい文章で描写されています。
若干キャラクター性が付け加えられ、史実と離れた部分はありますが、官兵衛について知る入門書としてはちょうどいい作品だと感じました。
黒田官兵衛 秀吉も一目おいた天下人の器
官兵衛の人物像について、丁寧に掘り下げられた本です。
官兵衛にまつわる有名なエピソードや、合戦について、ストーリー仕立てで書かれているため、読みやすく、理解しやすい構成になっています。
「軍師・黒田官兵衛」ではなく、一人の人間としての黒田官兵衛を知りたいと言う方にお勧めの一冊となっています。
【24年1月最新】秀吉の軍師!黒田官兵衛がよく分かるおすすめ本ランキングTOP7
おすすめドラマ
軍師官兵衛
そのタイトルの通り、官兵衛を主題にした大河ドラマです。比較的最近の作品なので、覚えている方も多いのではないでしょうか。
官兵衛を演じるのは、岡田准一さん。多彩な一面を持つ天才軍師を、鬼気迫るほどの演技力で見事に演じ切っています。
戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち
「二兵衛」である竹中半兵衛と黒田官兵衛の活躍を描いた、7時間にも及ぶ大作時代劇です。官兵衛ファン必見の作品なのですが、2011年の新年に放送され、DVD化がされていないのが残念なところ。
官兵衛を演じるのは、高橋克典さん。若かりし頃の、ちょっと血気盛んな時代の官兵衛を、見事に演じています。
関連外部リンク
黒田官兵衛についてのまとめ
智謀を武器に戦場を掌握しつつ、その心優しく情に厚い人柄で、多くの人物から慕われた黒田官兵衛。
その魅力の一部でも、皆さんに伝えることができたでしょうか?
軍師でありながら情に脆く、時に人間らしい失敗も犯してしまう官兵衛。流麗な風のように、どこまでも天才として戦場を駆け、そして早世した半兵衛とは違い、どこまでも人間的で、もしかすると身近にすら感じる人間性こそが、官兵衛の魅力であると思います。
それでは、長い時間この記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
うんこ