黒田官兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

1575年 – 30歳「小寺家共々、織田の配下へ」

官兵衛の決断

織田家に付くことを決意

信長包囲網により、織田家からの播磨への侵攻は一時中断。しかし、信長は数年の間に包囲網の有力な軍勢を悉く撃破。東の強国であった、甲斐の武田家をも討ち破り、天下の趨勢は、一気に信長へと傾きつつありました。

そんな状況の中、官兵衛はある決断を下し、主君に対して進言します。

「小寺家のため、我々は織田の旗下へと入るべきです」

当時の天下取りの中で、有力な勢力とされていたのは、東の織田家と西の毛利家。しかし、毛利家の中でも特に優秀だった謀将、毛利元就(もうりもとなり)は既に亡く、跡を継いだ毛利輝元(もうりてるもと)は、たしかに優秀な人物ではありましたが、天下を取れるほどの器量はない。官兵衛はそう考えたのでした。

官兵衛からの進言を小寺政職は承諾。政職は官兵衛を使者として、信長のもとへと送り出すのでした。

信長との対面

織田信長の浮世絵

小寺家からの使者として岐阜城に出向いた官兵衛は、後の主君、羽柴秀吉の仲介を経て、信長に謁見を果たします。

信長は当初、官兵衛が名乗っても振り返ることすらしないような不機嫌な状態だったようですが、官兵衛がその智謀の冴えを披露すると、信長の態度は一変したようです。

官兵衛のことをいたく気に入った信長は、名刀として名高い「へし切長谷部」を官兵衛に対して譲渡。更に、初対面の官兵衛を、播磨攻略、ひいては中国地方攻略の副官に任じたとも言われています。

そして、この播磨・中国攻略の総指揮官こそが羽柴秀吉。「秀吉の軍師・黒田官兵衛」は、正にここから始まったと言えるでしょう。

1577年 – 32歳「「秀吉の軍師・黒田官兵衛」の目覚め」

織田配下として、数々の功績を上げる

織田の配下、ひいては秀吉の部下となった官兵衛は、数々の合戦を経て頭角を現すようになっていきます。

中国攻めの接結を生み出した、3月の英賀合戦では、敵が水軍であることを逆手に取った奇襲戦を展開。毛利軍5000の兵を、自軍の僅か500人の兵で退ける大金星を挙げ、信長と秀吉から高い評価を得ています。

また、同年10月、松永久秀(まつながひさひで)との決戦となった信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)では、秀吉に前線基地として、居城である姫路城を提供。以降姫路城は、中国攻めの有用な前線基地として活用されることとなります。この時代の活躍を皮切りに、彼は秀吉の参謀として天下に名を知られるようになっていくのです。

松寿丸を、人質として織田家に送る

この年、官兵衛は息子である松寿丸を、人質として織田家へと送っています。
松寿丸は人質と言う立場ではありましたが、当時子供がいなかった秀吉・おねの夫婦から、我が子同然に可愛がられて過ごしたようです。しかし翌年、松寿丸には人生最大の危機が迫っているのでした。

1578年 – 33歳「官兵衛、囚われの身に」

中国攻めが本格化

この年になると、中国攻めが本格化。織田家と毛利家という二大勢力の激突に、漁夫の利を狙う者や、機に乗じて謀反を起こす者、息を潜めていた反織田勢力などが暴れ出し、中国攻めの情勢は一気に混沌としたものになっていきました。
官兵衛はその最中も、謀将と名高い宇喜田直家(うきたなおいえ)を調略するなど、秀吉の参謀として多くの手柄を上げていきます。

荒木村重の謀反で窮地に

しかし、直家を調略したのもつかの間、今度は織田家の重臣であり、官兵衛とも旧知の仲だった、荒木村重(あらきむらしげ)が謀反。更に、官兵衛にとっては主家でもある小寺家も、村重に続いて離反を表明してしまいます。

織田家の中でもそれなりの地位にあった村重。その謀反を重く見た秀吉は、交渉に長ける上、村重と旧知でもある官兵衛を使者として派遣します。使者として村重の治める有岡城に出向いた官兵衛は、謀反をやめるように説得を試みますが、失敗。拘束され、劣悪な環境の地下牢へと放り込まれてしまいます。以降、官兵衛は1年もの間、暗く湿った劣悪な環境の地下牢で過ごすこととなるのです。

その頃、織田家では…

松寿丸(黒田長政)

村重によって囚われ、音信不通となってしまった官兵衛。謀反や下克上が横行する情勢なだけに、信長は「官兵衛も織田を裏切ったのではないか?」と疑念を持ってしまいます。官兵衛をよく知る同僚、竹中半兵衛は「官兵衛は忠義者です。謀反を起こすはずはない」と信長を窘めますが、信長は聞く耳を持ちません。
官兵衛への疑念を強めた信長は、秀吉に対して、ある冷酷な命令を下します。

「人質である松寿丸を殺せ」

命令を受けた秀吉は悩みます。松寿丸は、可愛い我が子も同然の存在。だが、主君である信長に逆らうことなどできない……。板挟みの状況に悩む秀吉に対して、半兵衛はある策を講じるのでした。

また、当主不在となった黒田家の指揮は、隠居した父、黒田職隆がとっていました。一説では、官兵衛の妻・光を「御本尊」として黒田家を纏め上げていたそうですが、史実かどうかは五分五分と言った具合の、創作の度合いが強いエピソードのようです。

1579年 – 34歳「有岡城、落城」

有岡城が落城。官兵衛、救出される

栗山善助

官兵衛が消え、半兵衛が病に没しても、中国攻めは続いていました。激化する戦況の中、10月に、官兵衛が捕らえられている有岡城が落城。官兵衛は一年にも及んだ地下牢生活から、ようやく解放されます。

城に火の手が回り、焼け死ぬことを覚悟した官兵衛を救出したのは、若かりし官兵衛に仕官を申し出てくれた栗山善助でした。善助は衰弱しきった官兵衛を背負い、有岡城を脱出します。

助け出されたときの官兵衛は、髭は伸び放題。過度なストレスからか、髪は殆ど抜け落ちていたほか、皮膚病を患って、頭皮は醜い瘡に覆われていたそうです。中でも酷い状態だったのは、左ひざの関節。長い幽閉生活で曲がってしまったその関節は、終生治ることは無く、以降の官兵衛は、平時には杖をついて歩き、合戦時には輿に乗って指揮を執っていたそうです。

再会と、恩人の死

助け出された官兵衛は、善助に向けて「松寿丸の墓参りがしたい」と呟きます。牢の中で、冤罪とはいえ、自身の咎によって息子が殺されたことを知らされていた官兵衛。その悲しみは、想像するに余りあるものだったでしょう。

しかし善助は「お喜びください」と続けます。「松寿丸様は、生きておいでです」。その言葉を聞いた官兵衛が、どれほど救われた気持ちになったか。それも想像するに余りあるものだったと思います。松寿丸の生存には、竹中半兵衛が大きく関わっていました。

信長の命令と、自分の気持ち。その板挟みになって苦悩する秀吉に対し、半兵衛はある献策をしたのです。彼は秘密裏に、家臣の屋敷に松寿丸を匿わせました。処刑した首が本人かどうかを確認する「首実検」と呼ばれる作業には、よく似た別人の首を用意し、あたかも松寿丸を処刑したと、信長に見せかけました。そうすることで、半兵衛は松寿丸を密かに匿ったのです。

信長に真実が露見すれば、いかに秀吉や半兵衛であれ、ただでは済まなかったでしょうが、半兵衛は見事に、官兵衛の救出が成され、その無実が証明されるまで、松寿丸を守りきったのです。

しかし半兵衛は、官兵衛の救出の数か月前に病によって死去。囚われの間に帰らぬ人となった恩人に、官兵衛はいたく感謝したそうで、彼の形見である軍配と軍団扇を、終生大事に扱った他、黒田家の家紋を半兵衛が使っていたものに変更するなど、その感謝の念を忘れることはなかったと伝わっています。

1580年 – 35歳「中国攻めの激化、小寺家の滅亡」

激化する中国攻めと、主家、小寺家の滅亡

三木城の模擬城壁

救出された官兵衛が織田家に帰参したころ、秀吉は別所長治(べっしょながはる)が治める三木城の攻略に当たっていました。後世に「三木の干殺し」と伝えられる、凄惨な兵糧攻めに耐え兼ね、長治と主だった家臣たちは、兵士や民の助命を条件に自害。三木城は落城します。

そんな状況の中、荒木村重の謀反に乗じた小寺政職が敗走。実質的に小寺家が滅亡状態となったため、以降の官兵衛は、織田家に直接使える身となったようです。また、このあたりから官兵衛は自身の苗字を「黒田」に一本化。以前までは主に、主家の苗字であった「小寺」を名乗っていたようですが、歴史書にはこのあたりから、「黒田官兵衛」として名が記されるようになっていきました。

1581年 – 36歳「「鳥取の飢え殺し」」

凄惨さを増す戦場「鳥取の飢え殺し」

鳥取城跡

吉川経家(きっかわつねいえ)が治める鳥取城の攻略に乗り出した秀吉と官兵衛は、三木城よりもさらに徹底した兵糧攻めを展開。商人から米を買い占め、付近の農民や町人を鳥取城に避難させ、その状況で兵糧の補給を絶つという、あまりにも凄惨な策を展開し、たまりかねた鳥取城はわずか3カ月で落城の憂き目に。

この時の鳥取城の内部は、それは酷い有様だったらしく、「餓死者の肉を食べていた」という記録すら残っています。

1582年 – 37歳「本能寺の変、勃発」

本能寺の変、勃発

錦絵 本能寺焼討之図

中国攻めが終わりに近づく中、秀吉に一つの知らせが舞い込んできます。それは、京都・本能寺にて、織田家の重臣である明智光秀が突如として謀反。それを受けた信長が奮戦の末に自害した、という驚愕の知らせでした。

敬愛する主君の突然の死に呆然とする秀吉でしたが、官兵衛はその状況を冷静に分析。いまや天下取りの第一勢力だった織田家の当主、信長の突然の死は、秀吉にとっては窮地でもあるが、同時にチャンスでもありました。

状況をすぐさま見極めた官兵衛は、毛利輝元との和睦と、光秀の討伐を秀吉に進言。これを呑んだ秀吉は、即座に毛利輝元と和睦。現在で言う「中国大返し」を行い、光秀を討伐すべく山崎へと向かいます。山崎の戦いで、光秀と激突した秀吉の軍勢の中、官兵衛は天王山に布陣。明智軍と死闘を繰り広げ、秀吉の勝利に大きく貢献しました。

官兵衛の大失敗?秀吉に疑心を植え付ける

類稀な軍師としての才覚によって、今まで数々の窮地を逃れてきた官兵衛でしたが、ここで一つ、後にまで影響を与える、ある大きな失敗を犯しています。それは、信長の死を知らされた秀吉に対して掛けた言葉です。信長の死の知らせに呆然とする秀吉に対して、官兵衛はこう声を掛けたそう。

「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」

秀吉の天下を望んでいた官兵衛が、つい口にしてしまった本心なのか、はたまた呆然とする秀吉を立ち直らせるための方便だったのか。その言葉の狙いに関しては、現在では窺い知ることはできません。

しかし、信長の死を冷静に俯瞰し、あまつさえそれを「武運が開けた」とすら言ってしまえる官兵衛に対し、秀吉は強い恐れを抱いたと言われています。事実として、天下を取った後の秀吉は「家康よりも誰よりも、儂は官兵衛が怖い」と口にしており、「奴に100万石も与えれば、すぐに儂から天下を奪い取ってしまう」と、彼に対して冷遇とも言えるような扱いをしています。

友人である小早川隆景から「頭がよく回る切れ者である分、即断即決をしてしまい後悔することが多い」と評されていた官兵衛。正にその言葉通り、大事な時期に、後にまで響く失敗を犯してしまうのでした。

1583年 – 38歳「大阪城の築城に携わる」

大阪城の築城開始

再建された大阪城天守閣

この年の4月には、賤ケ岳の戦いが勃発。実質的な信長の後継者を決める決戦でしたが、秀吉は相手方の柴田勝家(しばたかついえ)を破り、名実ともに信長の後継者として、天下にその名を知らしめます。

それと時を同じくして、秀吉は居城、大阪城の築城を開始。官兵衛の築城の才能を高く評価していた秀吉は、官兵衛に大阪城の「縄張り」を任せることにしました。「縄張り」とは、簡単に言ってしまうと、城の全体像の設計の事。戦に対する備えや、平時の居住性、城そのものの規模や外観など、様々なことを考えねば務まらない大仕事です。

そんな大仕事を官兵衛は成し遂げ、見事大阪城の骨組みを作り上げます。その設計がいかに優れていたのかについては、戦国末期の大戦「大阪の陣」が、端的かつ中立的に、記録として語ってくれています。

1585年 – 40歳「四国攻めと、キリスト教への入信」

四国攻め

信長の後継者として勢いを強める秀吉は、四国に対して侵攻を開始。官兵衛は宇喜田秀家の軍に軍監として同行し、先鋒として参戦しました。

この時の戦いでは、官兵衛は先鋒としての働きの他、四国を統べる勇将、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)の作戦を見抜き、自軍の損害を軽度なものにすると言う、地味ながら的確な、切れ者軍師としての活躍も見せています。

キリスト教に入信

キリスト教に入信

この頃、官兵衛はキリスト教の教会に通い始め、入信。洗礼名を授かることになります。官兵衛の入信には、キリシタン大名として名高い高山右近(たかやまうこん)、蒲生氏郷(がもううじさと)による、熱心な布教が影響したそうです。
また、信長と秀吉もキリスト教に寛容な人物だったことから、官兵衛も以前よりキリスト教には興味を持っていました。そのことも入信に繋がったのだと考えられています。

キリスト教に入信した官兵衛に与えられた洗礼名は「シメオン(ドンシメオン)」。官兵衛の入信の翌年には、息子の長政と弟の直之も入信。長政はダミアン、直之はミゲルの洗礼名を授かっています。

1586年 – 41歳「勘解由次官への任命と、九州征伐開始」

勘解由次官への任命と、九州への出兵

大友宗麟像

この頃、官兵衛は従五位・勘解由次官への叙任を受けます。 そしてそれと時を同じくして、秀吉は南部を押さえるべく九州の平定を計画。九州の中でも有力な勢力の一つだった大友家の大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に従いましたが、薩摩を治める島津家は、秀吉に従うことを拒否。秀吉の配下となった大友家に戦を仕掛けます。

武勇で鳴らす島津の軍勢に攻められた大友家は、秀吉に救援を依頼。これを受諾した秀吉は、島津討伐のために軍を九州に向かわせます。官兵衛も九州へ向かう軍に軍監として従軍し、九州平定のための戦いの多くに参加。多くの功績を残しました。

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