黒田官兵衛の生涯年表
1546年 – 1歳「黒田官兵衛、誕生」
後の天才軍師、姫路に誕生する
官兵衛は、天文15年(1546年)12月22日に、現在の兵庫県である播磨国の姫路城で、黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれます。幼名は万吉(まんきち)でした。
当時の播磨は、下剋上が横行する、群雄割拠で混沌とした状況でしたが、幼い官兵衛はまだそんな情勢は露とも知らず、両親やその家臣、父の主君である小寺家の面々からも可愛がられ、すくすくと成長していきます。
そんな彼は、7歳で読み書きを習い始めると、和歌や連歌に興味を持ちはじめます。武芸の才も人並み以上にあり、武芸の鍛錬を好む一面はあったようですが、それよりも和歌や連歌を好み、その道で身を立てることを望むような文化系の少年だったそうです。
文武に秀で、鍛錬を好む武士らしさを持ち合わせつつも、それ以上に文化的な事柄に興味を示す少年時代を送った官兵衛。彼が天下に名を轟かせる機会は、まだまだ巡ってきてはいませんでした。
1559年 – 14歳「母の死」
母の死により、塞ぎ込む日々
官兵衛が14歳の頃、突如として母親が急逝。その突然の死にショックを受けた官兵衛は、引きこもって文学に耽溺するようになってしまいます。
祖父の持っていた歌集を読みふけり、母の死を悼む歌を詠むなど、どんどん悲しみを深めていく官兵衛。そんな塞ぎ込む日々は、1年ほど続いたようです
円満の言葉で立ち直り、武家の男としての強さを目指す
そんな官兵衛の様子を見かねたのが、官兵衛が7つの頃から、彼に学問を教えていた円満(えんまん)という僧侶でした。
塞ぎ込み、武士を辞めて和歌や連歌の道を生きたがる官兵衛に、円満は「こうしていつまでも悲しんでいることを、母君が望んでいると思うのですか?」「今は乱世である以上、和歌よりも軍学を学び、強く在らねばなりません」と説得。
その説得に感銘を受けた官兵衛は、母への思いを振り切り、武家の男として強くなることを決意。歌集ではなく兵書を読み、弓術や剣術、馬術の鍛錬に、より一層励むこととなるのです。
1561年 – 16歳「元服と仕官」
元服。「官兵衛」の名を名乗り始める
文武の鍛錬に励んだ万吉少年は、1561年に元服。名を万吉から孝高(よしたか)と改め、通称を官兵衛と名乗り始めます。
仕官。小寺政職の近習として取り立てられる
元服した官兵衛は、それとほとんど同時に最初の主君と出会います。官兵衛の最初の主君は、父が使える小寺政職(こでらまさもと)。その出会いは、豊臣秀吉と石田三成の出会いのエピソードと、少しだけ似たものでした。
黒田家の居城、姫路城の改築が終わり、政職がその様子を見に来た時の事。政職の目に止まったのは、キビキビとした様子で御膳を運ぶ、官兵衛少年の様子でした。そのキビキビとした所作と、細かなところによく気が付く性格を気に入った政職は、官兵衛をスカウト。
官兵衛もそれを受け、政職の近習として80石の禄を受けることとなるのでした。
1562年 – 17歳「初陣」
父と共に出陣。鮮やかに勝利を収める
小寺政職の近習として仕えることとなった官兵衛は、土豪である浦上宗景との戦いで初陣。17歳と言う、平均よりもやや遅い年齢での初陣ではありましたが、彼は父と共に出陣し、奮戦。見事に勝利を収めています。
この頃から、若く、強く、思いやりがある若武者として、官兵衛の名声は高まり始めたらしく、それに伴って黒田家への仕官を希望する者が増え始めます。
1564年 – 19歳「婚礼襲撃事件。妹の死」
赤松政秀による婚礼襲撃事件、勃発
室津(現在の兵庫県)の勢力、浦上家の婚儀を、その敵対勢力である赤松政秀(あかまつまさひで)の軍勢が襲撃。浦上清宗(うらがみきよむね)と、その父である浦上政宗(うらがみまさむね)、そして清宗と婚儀を上げていた官兵衛の妹(一説では姉とも)が殺害される事件が発生します。
史実かどうかは定かではないとされるエピソードではありますが、この話が現実にあったのだとしたら、若き官兵衛が受けたショックは並大抵のものではなかっただろうことが察せられます。
また、赤松政秀は後に官兵衛と戦場で敵対することとなり、官兵衛率いる黒田家の死に物狂いの抵抗によって、撤退に追い込まれることとなります。もしかすると、黒田家の抵抗の強さには、この時の事件が大きく影響を与えていたのかもしれません。
また、この1年後である1565年には、栗山善助(くりやまぜんすけ)が黒田家に仕官し、官兵衛の側近となります。彼は後に利安(としやす)と名を改め、黒田二十四騎、黒田八虎と謳われる、黒田家の重臣として重用される人物となります。後に、囚われの身となった官兵衛を救出する大役を担うこととなる善助ですが、官兵衛はこの時の彼の仕官に対し「こういう者が欲しかった」と口にし、善助の朴訥とした礼儀正しい人間性を絶賛したとされています。
1567年 – 22歳「結婚。そして、黒田家の当主に」
官兵衛の結婚
若く、強く、思いやりのある若武者として官兵衛の名が播磨に知れ渡ってくると、官兵衛の周囲は彼の結婚を考え、何かと世話を焼いてくるようになります。
特に、官兵衛のことを幼いころから知り、彼のことを高く評価している主君、小寺政職は何かと世話を焼きたがったようで、自身の姪である櫛橋光(くしはしてる)との結婚を官兵衛に勧めます。
光の生家である櫛橋家は、播磨の中でも有力な勢力。当時の結婚は政治的な思惑で行うのが一般的だったため、官兵衛はその婚姻を承諾。光と官兵衛は祝言を上げ、夫婦となるのでした。この時官兵衛は22歳、光は16歳でした。
光は大柄で才色兼備な女性だったらしく、体格は官兵衛よりも大きかったと伝わっています。また、政略的な結婚ではありましたが、夫婦の中はとても良かったようで、側室が当たり前の時代の中、官兵衛は生涯、光ただ一人だけを愛し続けたそうです。
父の隠居により、黒田家当主に
官兵衛と光の婚儀の最中、官兵衛の父、職隆が宴席でさらりと隠居を表明。当初、家臣たちは冗談だと考えたようですが、職隆は本気だったようで、45歳と言う若さで早々に隠居してしまいます。
その影響で、官兵衛は妻を娶るのとほとんど同時に黒田家の当主に。父から家老の職と姫路の城も譲り受け、黒田家の若き当主として立つことになるのでした。
1568年 – 23歳「長男、松寿丸の誕生」
長男、松寿丸の誕生
この年、官兵衛と光の間に、長男が誕生します。松寿丸と名付けられたその子は、後に人質として織田家に送られ、ある危険に晒されるも、周囲からの助けによって、どうにか難を逃れて成長。
武勇で名を馳せる猛将、黒田長政(くろだながまさ)として成長した彼は、後に福岡藩の初代藩主となって、黒田家の長い安泰を支えることとなるのです。
1569年 – 24歳「青山・土器山の戦い、勃発」
織田家と将軍勢力の連合による、播磨侵攻が開始
この頃になると、播磨内部の小競り合いは激化。更に、そのことを好機と見たのか、足利義昭と結んだ織田信長も、播磨へと侵攻を開始してきます。
信長は2万もの軍勢を秀吉に預け、播磨を手中に収めるべく猛烈に侵攻。黒田家はもとより、その主家である小寺家や、同盟勢力である浦上家も、織田家による苛烈な侵攻に晒されることとなってしまいます。
青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)
官兵衛の治める姫路城に攻めかかったのは、将軍と結んだ赤松政秀の軍勢。官兵衛たち黒田家にとっては、浦上家との婚儀を襲撃し、官兵衛の妹を殺害した、まさに仇敵と言ってもいい人物です。
兵力は、政秀の軍勢が3000人に対し、官兵衛の軍勢はわずか300人。10倍の兵力差という窮地。普段なら頼みにできる小寺、浦上からの援軍も、どちらも侵攻を受けている現状では期待できない。そんな絶体絶命の状況の中、官兵衛の軍師としての才が目覚めます。
官兵衛は、自軍が少兵であることを逆手に取り、奇襲戦を展開。2度にわたって赤松政秀の軍勢と激突し、播磨の反織田勢力、三木通秋(みきみちあき)の援軍にも助けられる形で、なんとか赤松の軍勢を撤退に追い込むことに成功します。
黒田家にも多大な犠牲が出たようですが、自軍の10倍もの敵を撤退に追い込む辺り、官兵衛の軍師としての才覚を示すエピソードであると思います。
母里太兵衛の仕官
この頃、後に先述の栗山善助と並び、黒田二十四騎、黒田八虎と謳われることになる、母里太兵衛(もりたへえ)が黒田家に仕官してきます。仕官当時の太兵衛は14歳。後に槍の名手であり、戦国屈指の豪傑として語られる片鱗を見せるような頑固者であり、手の付けられない暴れ者だったと言われています。
そんな太兵衛の性格を危惧した官兵衛は、既に黒田家に仕えて長くなった栗山善助と太兵衛を引き合わせ、「太兵衛、今日からお前は、善助を兄と思って、様々な事柄について指示を仰ぐように」と伝えます。善助と太兵衛は義兄弟の契りを交わし、その誓紙は官兵衛が管理することとなりました。
元来素直な性質だったらしい太兵衛にとって、官兵衛の目論見は大当たり。善助は太兵衛をよく可愛がり、太兵衛は善助を大いに慕ったようです。また、この時の誓紙が、後に官兵衛のエピソードとして登場することになるのですが、そのエピソードについては、年表を読み進めていただけると幸いです。
うんこ