いくつ答えられる?ダヴィンチクイズ

秀吉も恐れた?黒田官兵衛の生涯・歴史年表まとめ【名言や死因も紹介】

dog

黒田官兵衛は、戦国時代から江戸時代最初期にかけて活躍した武将です。

その知略と政治的な手腕、卓越した交渉力で名が知られた軍師であり、主に織田信長や豊臣秀吉の下で、その能力を惜しみなく発揮。後の世で“三英傑”と称される彼らの天下取りに、その頭脳を持って大きく貢献をしました。

その反面、大変な野心家でもあったとも語られており、秀吉からの信頼は非常に厚かった半面、晩年の秀吉は家康よりも官兵衛を恐れ、半ば冷遇していたとも言われています。

「黒田“官兵衛”」の名が有名ですが、実際の名前は「黒田孝高(くろだよしたか)」もしくは晩年の出家後に名乗った「如水(じょすい)」とされていて、「官兵衛」という名前はあくまでも通称であるようです。

引用元:Wikipedia

他にも、同じく秀吉の参謀役として有名な軍師、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と並び称される「二兵衛」の通称が有名で、「戦国に名高い軍師と言えば?」と言う問いがあれば、彼らの名前が上がらない事はまず無い事でしょう。

2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では主題となり、現在では広く名が知られる人物となった官兵衛。ですが実のところ彼がどのような事業を成したのか、あるいは彼がどのような人物だったのかについては、あまり知られていないところもあるかと思います。

この記事では、そんな黒田官兵衛の実態について、年表や俗説を交えながら紹介していきたいと思います。

※なお、この記事では年齢を「数え年」で表記させていただきます。ご留意ください。
※本記事では、読みやすさの観点から官兵衛の家系の苗字は「黒田」、名は「官兵衛」で統一させていただきますので、ご留意ください。

目次

黒田官兵衛とはどんな人か?

名前黒田孝高
通称黒田官兵衛もしくは黒田如水
誕生日1546年12月22日
生地播磨国・姫路・姫路城(現在の兵庫県姫路市)
没日1604年4月19日(59歳)
没地京都伏見藩邸(現在の深草大亀谷敦賀町近辺)
配偶者櫛橋光(くしはしてる)
埋葬場所博多郊外、キリシタン墓地近辺の松林
(墓所は福岡、京都、和歌山などに現存)

黒田官兵衛の生まれは?

官兵衛は、天文15年(1546年)12月22日に、現在の兵庫県である播磨国の姫路城で、黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれました。幼名は万吉(まんきち)でした。

当時の播磨に乱立していた勢力の一つ、小寺家に仕えていた父、職隆は、小寺家の当主である小寺政職(こでらまさもと)に家老として仕え、主家の苗字である「小寺」を名乗ることを許されるほどに信頼も厚い、大変にできた人物だったそうです。

姫路城

また、職隆は城主としても民から慕われる優秀な人物であったらしく、姫路城下に大きな長屋を建て、そこに貧しい者たちや行商人を住まわせていた、と言う心優しい逸話が残っています。一方でただ心優しいだけではなく、その長屋に住まわせた貧しい武士を黒田家の配下として取り立てたり、長屋を行商人との情報収集の場としたりと、強かに実利を求める策略家の一面もあったようです。さすがは後の軍師、黒田官兵衛の父親ですね。

そんな心優しくも強かな父の下で育った万吉少年は、武芸よりも和歌や連歌を好む文学少年で、一時は本気でそちらの道へ進むことを考えていたようです。

ともかく、心優しい父の下で、和歌や連歌の雅に触れて育った万吉少年。「三つ子の魂百まで」と言いますが、晩年の官兵衛のエピソードには、父の心優しい性格の影響や、幼い頃の夢の影響と思われるエピソードも残っています。

そのようなエピソードについては、後のトピックや年表で取り上げさせていただきたいと思います。

黒田官兵衛の初陣は?

元々武芸よりも和歌や連歌を好んでいた官兵衛は、14歳の頃に母を亡くして以降、悲しみに暮れ、1年ほど引きこもって和歌や連歌に没頭してしまいます。しかし、近隣の僧から「そのように悲しみに暮れられることを、母君はお望みでしょうか?」と諭されたことで一念発起。武芸の鍛錬を積み、文武両道の俊才として、小寺勢力の中でも名高い若者として成長していきます。

和歌や連歌を好んでいた

そんな官兵衛の初陣は、1562年に起こった浦上宗景(うらがみむねかげ)との戦いでした。

当時の官兵衛は17歳。10代前半での初陣が多い時代だったため、少々遅い初陣でしたが、官兵衛は父と共に出陣し、見事に勝利を収めています。

また、初陣の前年である1561年には、そのよく気が付く性格を高く評価され、小寺政職の近習(きんじゅ、今でいう側近)として取り立てられています。また、この頃から彼は自身のことを「官兵衛」の通称を用いて名乗るようになったとされています。

黒田官兵衛の主君は?

官兵衛の主君と言えば、やはり有名なのは織田信長と豊臣秀吉ですが、実は官兵衛と彼らの出会いは、敵対関係からだったというのはご存知でしょうか?

1569年、前年に足利義昭が織田信長の協力を得て将軍として立ち、その後押しを得た織田信長が、天下に広く名を知らしめた時代。当時、群雄割拠で混沌とした状態だった播磨を平定すべく、信長は2万もの軍勢を差し向けます。そして、その2万の軍勢を指揮していたのが、後の官兵衛の主君である木下秀吉でした。

織田信長の浮世絵

当然、官兵衛の治める姫路城も戦渦に巻き込まれ、敵軍である織田勢力の一つ、赤松政秀(あかまつまさひで)の兵士3000人に対して、自軍は僅か300人という未曽有の危機に追い込まれてしまいます。

こういう時に頼れるのは、主家である小寺家や、同盟相手である浦上家なのですが、小寺家の城は織田勢力に攻められ、浦上家は有力な家臣でもあった宇喜田直家(うきたなおいえ)に離反されるなど、とても官兵衛を救援できる状況ではありません。

絶体絶命の状況の中、ここで官兵衛の軍師としての才が目覚めます。官兵衛は僅かな兵を率い、奇襲や夜襲を行って抵抗。播磨の反信長勢力、三木通秋(みきみちあき)の援軍にも助けられ、多くの犠牲を払いながらも、見事赤松家の勢力を退けることに成功します。

そしてその大戦から数年後の1575年。官兵衛は主君である小寺政職に、信長への臣従を進言。政職もこれを了承し、官兵衛を使者として送り出します。

豊臣秀吉

送り出された官兵衛は、秀吉の取り次ぎによって信長と謁見。官兵衛の知略を大いに気に入った信長は、名刀として名高い「へし切長谷部」を官兵衛に譲渡。更に播磨攻略の指揮官である秀吉の補佐役として、謁見したばかりの官兵衛を指名したという逸話も残されています。

こうして織田の家臣であり、秀吉の腹心となった官兵衛。信長と秀吉は官兵衛の類稀な頭脳をたいそう重用し、それに伴って、軍師・黒田官兵衛の名は、みるみるうちに天下に知らしめられることとなるのです。

黒田官兵衛の人間関係は?

竹中半兵衛

官兵衛とかかわりの深い人物と言えば、やはり先述した「二兵衛」の片割れ、竹中半兵衛の名前が真っ先に上がることでしょう。

名前の「兵衛」のみならず、秀吉に仕え、知略をもって乱世に名を残した名将という点からも、なにかと共通点の多い二人ですが、彼らが共に戦った戦場は、実のところほとんどありません。

その戦場と言うのも、半兵衛の晩年であり、官兵衛が織田家に仕えて数年の頃である、1577年の中国攻めの戦場の間。それも中国攻めが始まってから、官兵衛が囚われの身になるまでの短い期間だけであり、天下に名高い軍師二人が戦場に並び立ったことは、実際のところ殆どなかったようです。

しかし、戦場の外での彼らの親交は深かったようで、血気に逸りがちだった若かりし頃の官兵衛を厳しく諌める半兵衛の話など、その親交を示すエピソードは多く残っています。

岐阜県垂井町にある銅像

半兵衛と官兵衛のエピソードのうち、特に有名なものとしては、敵対勢力に囚われ、音信不通となった官兵衛の謀反を疑った信長の、「官兵衛の息子、松寿丸を殺せ」と言う命令から、半兵衛がその息子を密かに匿ったと言うエピソードがあります。

官兵衛が助け出されたころには、既に半兵衛は肺の病でこの世を去ってしまっていました。しかし官兵衛は、息子を助けてもらった恩を忘れることなく、半兵衛の息子の竹中重門(たけなかしげかど)の後見人を務めた他、半兵衛の形見として譲渡された軍団扇と軍配を、終生大事に扱ったそうです。

また、半兵衛と官兵衛の絆は、彼ら自身の代だけにとどまらず、関ケ原の戦いでは、半兵衛の息子、竹中重門の軍勢と、官兵衛の息子、黒田長政(くろだながまさ)の陣営が、隣り合わせに布陣していたことも記録されています。

半兵衛の他には、毛利家の軍師であった小早川隆景(こばやかわたかかげ)とも仲が良かったことが記録に残されています。もっとも、織田家と毛利家は敵対関係でもあったので、友人と言うよりも、ライバルと言った方が正しいかもしれません。

絹本著色小早川隆景像

隆景は官兵衛に対し「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない」と、賞賛とも諫言とも取れる言葉を贈っています。

官兵衛も、晩年に隆景の死を知らされた際には「これで日ノ本に賢者はいなくなった」と嘆きを口にしたとされ、両者の親交と、互いに対する高い評価を読み取ることができます。

黒田官兵衛の人物像は?

軍師として名が知られ、その知略で信長や秀吉から重用された官兵衛。軍師らしい頭の回転の速さと、1年もの間汚い地下牢に監禁されても屈さなかったド根性を持つ官兵衛ですが、その本質は、中々に強かな野心家でもあったようです。

その野心的な一面を示すエピソードに、中国大返しの際の一幕のエピソードがあります。

錦絵 本能寺焼討之図

明智光秀の謀反によって、織田信長が本能寺で自害。その知らせを受けてショックで呆然とする秀吉に対して、官兵衛は冷静でした。冷静に状況を分析した官兵衛は、呆然とする秀吉に対してこう告げます。

「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」と。

結果として光秀を討ち、信長の後継者となった秀吉は、瞬く間に日本全土の勢力を掌握。官兵衛の言った通り天下の覇者となるわけですが、それはあくまで結果論。

主君を喪ってショックを受ける自分に対し、あまりにも冷徹に次に進むべき道を提言した官兵衛に対し、秀吉は信頼を置くと同時に、ひどく彼を恐れるようになったと伝わっています。

豊臣秀吉

歴史書にも、晩年の秀吉が家臣に対し、「儂の次に天下を取るのは官兵衛だ」「奴に100万石も与えれば、儂が生きているうちにでも天下を取るだろう」と口にしたと記録されており、事実、秀吉から官兵衛に与えられた石高は、その功績と比べるとあまりにも少なく、秀吉が如何に官兵衛を恐れていたのか、その数字からも読み取ることができます。

しかし、秀吉にも恐れられた野心家な一面の一方、戦の外での官兵衛は、とても優しく、気配りのできる人物だったそう。

妻である光ただ一人を終生愛し続け、隠居後には城下の子供たちに屋敷を解放し、思う存分遊ばせただとか、城下にふらりと出向いては、貧しい子供たちにお菓子を配り歩いただとか、父である職隆同様、人間的に優れた様子を示すエピソードが数多く残されています。

心優しいエピソードも多く残されている

また、部下に対しても慈悲深く接していたようで、部下を叱ることは殆どなく、叱る時も猛烈かつ手短に叱った後、簡単な仕事を申し付けるなどのアフターケアを忘れない。戦のために兵を集めた際、支度金を二度受け取ろうとした者にも、何も言わずに笑って二度目の支度金を与えるなど、理想の上司ぶりを示すエピソードが数多く残っています。

何より、部下に対する手討ちや、死罪の申しつけが当たり前だった時代に生きながら、官兵衛は家督を継いでから隠居するまで、一度も手討ちや死罪の申しつけをしなかったそうです。

かたや野心的な天才軍師。かたや妻子や民、部下たちを愛する名君。秀吉が信頼し、何より恐れた鬼謀の軍師には、どうやら様々な側面があったようです。

黒田官兵衛とキリスト教の関係は?

黒田官兵衛の印象

1583年、官兵衛はキリスト教に入信し、洗礼名を与えられています。

洗礼名はシメオン。入信には、キリシタン大名として有名な高山右近(たかやまうこん)からの勧めが大きく影響したようです。

しかし入信からほどなくして、秀吉がバテレン追放令を発令。抵抗した高山右近らが次々と罰せられる中、官兵衛はすぐに棄教してしまいます。

これだけを見ると、官兵衛の信仰はそれほど厚くなかったように見えますが、キリスト教の教えの中に「命を大事にする」と言うものがあるため、官兵衛の行動は、それを守ったが故のものとも見ることができます。

事実、官兵衛の葬儀はキリスト教の形式で行われているため、官兵衛は信仰を捨てたのではなく、教義を守るために教えを捨てたように見せかけた、というのが、現在の定説となっています。

黒田官兵衛の死因は?

官兵衛の死は、戦国から江戸への過渡期、1604年の4月に訪れました。享年は59歳。祈祷文とロザリオを胸の上に置き、家臣との絆の証を懐に入れての、安らかな死だったそうです。葬儀は官兵衛の遺言に則って、キリスト教の形式で行われ、その遺体はキリシタン墓地の近くの林に埋葬されたと記録されています。

官兵衛の死因について、正確なことは分かっていません。

黒田官兵衛の墓

没する半年ほど前に、有馬温泉に療養のために滞在していたことは記録されていますが、何の病気の療養だったのか、そもそも死因は病だったのか、という事も含めて、正確な事は分かっていないようです。

また、官兵衛は遺言で、家臣の殉死を禁止。これにより、官兵衛の息子である長政のもとには、官兵衛と共に乱世を生き抜いた、優秀な家臣たちが揃うことになります。

死に際して尚、家の事や息子の事、家臣たちのことを思い、黒田官兵衛はその生涯を静かに終えたのでした。

黒田官兵衛にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「財テクの鬼、黒田官兵衛」

軍師としての戦略や軍略、あるいは交渉力に関する逸話が有名な官兵衛ですが、実はその財テクもかなりの物だったそう。

当時、主君が部下に対して物を贈るときは「下賜」として無料で与えることが一般的でしたが、官兵衛は殆ど下賜をすることなく、身の回りのいらなくなったものは、家臣に対して売り下げ、その代金をもって蓄財に励んでいたようです。

お金にはシビアなところがあった?

今の考え方からすると、官兵衛の行動は「ケチ」と取れます。実際、「売り下げずに下賜すればよろしいのでは?」との声はあがっていたようです。当時の価値観からすると、主君から下賜されるということは、家臣にとっての誇りとなるのですから、猶更です。

しかし官兵衛は「下賜してやりたいが、品物には限りがある。貰える者と貰えない者がいては、そこには不公平さが生まれ、それは巡り巡って皆の士気にも悪影響を及ぼす。だから、買いたい者は買い、いらない者は買わなければよいのだ」と答えたそう。堅実な財テクと家臣たちの士気を考えた、官兵衛らしい合理的かつ人間的な思考だと言えるでしょう。

そんな倹約家な官兵衛ですが、金の亡者と言うわけではなく、使うべき時には大規模にお金を使っていた様子。

中央で関ケ原の戦いが起こっていた頃、九州を我が物とすべく兵をあげた官兵衛でしたが、その際には貯め込んだ財を一気に解放。一説では、関ケ原に参戦していた息子、長政の軍勢以上の数の兵士を、瞬く間に集めたと言われています。

都市伝説・武勇伝2 「築城や連歌のプロフェッショナル、黒田官兵衛」

官兵衛は、軍略や財テクのみに留まらず、城の建築や、連歌など、様々な分野にも精通していたと言われています。

築城の腕に関しては、秀吉から非常に高く評価されていたようで、秀吉の居城であった堅城、大阪城の設計にも携わったと言われています。

『大坂夏の陣図(黒田屏風)』に描かれた大坂城天守閣

また、秀吉の配下である猛将であり築城の名手、加藤清正(かとうきよまさ)からも、「自分の作った城は3日ほどで落城してしまうが、官兵衛殿の作った城は30日は落ちない」と、その築城の手腕を絶賛されています。

連歌の腕前に関しても、文武両道で知られる細川幽斎(ほそかわゆうさい)、羽州の謀略家として名高い最上義光(もがみよしあき)と並び、当時の武将の中でもトップクラスの実力を持っていたそうです。

軍略、築城に優れ、一財を成す堅実な経済的テクニックを持ち、連歌による芸術的な雅を解する人物。黒田官兵衛が多芸多才な人物であったことに、疑いを挟める余地はないでしょう。

黒田官兵衛の略歴年表

1546年
黒田官兵衛、誕生
1546年12月22日、黒田官兵衛は播磨国・姫路で誕生しました。幼名は万吉。播磨の勢力、小寺家の家老である父の下、嫡男として育てられていきます。
1559年
母の死
母の死によって悲しみに暮れた官兵衛は、引きこもって和歌や連歌に耽溺。武士として生きることを捨てたようなその状況は1年ほど続きますが、近隣の僧、円満から諭され、官兵衛は文武両道の道へと歩み出します。
1561年
元服。小寺政職の近習に抜擢
官兵衛の能力を高く評価した主家の当主、小寺政職によって、元服直後かつ初陣も経験していない身ながら、近習へと取り立てられます。よく知られる「官兵衛」の名を彼が名乗り始めたのも、このあたりからです。
政職は官兵衛の能力を高く評価していたようで、自身の姪である櫛橋光を官兵衛に娶らせるなど、何かと厚遇していたことが記録によってわかっています。
1562年
官兵衛、初陣を飾る
当時の官兵衛は17歳。少し遅めの初陣でしたが、父と共に浦上宗景(うらがみむねかげ)との戦いへ出陣し、見事に勝利を収めています。
1564年
婚礼への襲撃。官兵衛の妹が討たれる
室津(現在の兵庫県)の勢力、浦上家の婚儀を、敵対勢力である赤松政秀の軍勢が襲撃。浦上清宗(うらがみきよむね)と、その父である浦上政宗(うらがみまさむね)、そして清宗と婚儀を上げていた官兵衛の妹(一説では姉とも)が殺害される事件が発生します。
1567年
官兵衛、黒田家の当主に
この頃、官兵衛は小寺政職からの勧めによって、櫛橋光と結婚。生涯ただ一人の妻として、官兵衛を支え続ける才女を、黒田家に迎え入れることになります。
さらに、官兵衛の結婚と時を同じくして、父である黒田職隆が隠居を表明。官兵衛は父から、家老の職と姫路城を受け継ぎ、黒田家の若き当主として立つこととなるのでした。
1568年
長男、松寿丸の誕生
この年に、官兵衛と光の間に、長男である松寿丸が誕生。後に黒田長政となるその子は、武芸で名を馳せる豪傑として、歴史に名を残すこととなるのです。
1569年
青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)勃発
将軍、足利義昭の勢力となった織田信長が、播磨を平定すべく、2万もの軍勢を伴って侵攻を開始。官兵衛の預かる姫路城は、将軍の軍勢であり、妹の仇でもある赤松政秀の軍勢に攻められ、窮地に陥ります。
敵軍3000人に対し、自軍300人という絶体絶命の状況の中、官兵衛は奇襲戦を展開。反織田勢力の援軍にも助けられ、多大な犠牲を払いつつも、官兵衛は姫路城を守り切ることに成功します。
1575年
官兵衛、織田家の配下へ
主君、小寺政職に対し、官兵衛は織田家への臣従を進言。織田家ではなく、毛利家に臣従することも考えたようですが、官兵衛は「織田家の方が天下の覇者になり得る」と考えたようです。
その進言を受けた政職は、官兵衛を使者として信長のもとへ送り出します。信長と謁見した官兵衛は、その智謀をたいそう気に入られ、名刀「へし切長谷部」の下賜を受けた他、播磨攻略の副官として任じられたとの逸話も残っています
1577年
秀吉の参謀として、頭角を現す
織田の旗下に入った官兵衛は、出世頭、羽柴秀吉の配下として頭角を現します。3月の英賀合戦では、敵軍5000の兵を、自軍500人で退けた他、松永久秀(まつながひさひで)との決戦となった信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)では、秀吉に姫路城を提供し、以降彼は、秀吉の参謀として名を知られるようになっていきます。
また、この年には長男である松寿丸(後の黒田長政)を、織田家への人質として信長のもとへ送ります。この人質が、後の竹中半兵衛とのエピソードに繋がることになるのです。
1578~1579年
荒木村重の手で、囚われの身に
前年の10月に、中国攻めが開始。秀吉がその総指揮官に任じられると、官兵衛は秀吉の参謀として、調略や交渉役として織田の勝利に貢献しました。
しかし、織田から離反した荒木村重(あらきむらしげ)との交渉には失敗。官兵衛は捕えられ、劣悪な環境の地下牢へ幽閉されてしまいます。救出されるまでの1年もの間、幽閉され続けた官兵衛は、救出されたころにはボロボロになっていたらしく、髪は抜け落ち、頭にはひどい瘡ができ、左足の関節には障害が残ってしまったそう。
また、官兵衛が虜囚となっている中、盟友である竹中半兵衛は陣中で病没。二人の軍師が再会を喜び合うことは、残念ながら出来なかったようです。
1580年
主家、小寺家の敗走
官兵衛の主家である小寺家も、混沌とした中国攻めの情勢を好機と見たのか、荒木村重の謀反に乗じる形で、織田家へ謀反を起こしますが、失敗。
小寺政職は敗走し、官兵衛の主家であった小寺家は滅亡状態に。これにより官兵衛は、名実ともに織田家に仕える武将となります。また、このあたりから官兵衛は自身の苗字を「黒田」としています。
1582年
本能寺の変と、中国大返し
中国攻めが終わりを迎えようとする中、突如として京都、本能寺にて明智光秀が謀反。信長の死を知り、呆然とする秀吉に、官兵衛は毛利輝元との和睦を進言。それを受諾した秀吉は、中国大返しを成功させ、信長の後継者として天下に声を上げるのでした。
余談ですが、信長の死を知って呆然とする秀吉に対し、官兵衛は「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」と声を掛けたそう。官兵衛の野心家な一面が分かる言葉ですが、この一言のせいで、官兵衛は終生、秀吉に警戒され続けることになるのでした。
1583年
大阪城の築城に携わる
賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で柴田勝家(しばたかついえ)を下し、名実ともに信長の後継者となった秀吉。時を同じくして、官兵衛はその居城である大阪城の築城に携わることになります。
官兵衛が携わったのは”縄張り”と呼ばれる、全体像の設計の部分であり、その設計がどれだけ優れていたのかについては、後の世に起こる大阪の陣が、記録として何より物語ってくれることとなります。
1585年
四国攻めと、キリスト教への入信
勢いを強める秀吉は、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が治める四国へ侵攻。官兵衛は宇喜田秀家(うきたひでいえ)の軍監として参戦し、元親の策略を見抜くなどの、軍師らしい活躍を見せます。
また、周囲からの勧めもあってキリスト教に入信。洗礼名として「シメオン(ドンシメオン)」の名前を与えられています。
1586年
勘解由次官への叙任と、九州征伐の開始
この年、官兵衛は勘解由次官(かげゆじかん)に叙任されています。
また、秀吉は南部を平定すべく、九州へと侵攻。秀吉への臣従を示した大友宗麟(おおともそうりん)からの要請で、薩摩を治める島津家との戦が勃発。官兵衛も宗麟の求めに応じて、軍監として九州へ向かいます。
1587年
九州平定が完了。12万石の大名に
島津家との戦は、秀吉の勝利に終わり、九州は秀吉の物に。官兵衛は豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)の殆どを占める、12万石の領地を与えられます。
官兵衛の働きに比べると小さすぎる領地でしたが、これは一説によると、官兵衛の謀反を恐れた秀吉が、官兵衛に大きな領地を与えるのを嫌がったから、と言われています。
1589年
家督を息子に譲り、秀吉の側近として仕える
黒田家当主の座を息子、黒田長政(くろだながまさ)に譲った官兵衛は、以後、秀吉の側近として彼に仕えていきます。
1590年
小田原征伐勃発。無血開城のために動く
秀吉の天下を決定づける対戦、小田原征伐が勃発。
官兵衛は小田原城を無血開城させるべく、北条氏政(ほうじょううじまさ)、氏直(うじなお)親子を説得。それが功を奏し、小田原城は無駄な血を流すことなく開城されることとなります。
この時の官兵衛の手腕を、秀吉はたいそう褒め称え「官兵衛のおかげで小田原征伐が終了した」と、長政にあてた朱印状に残しているほか、敵方であった北条氏直からも、北条家の家宝であった名刀「日光一文字」を譲り渡されたとされています。
1592年
文禄の役に参戦するも、病を理由に帰国
秀吉の命により、官兵衛は、総大将である宇喜田秀家の軍監として朝鮮へと出兵。しかし、加藤清正(かとうきよまさ)と小西行長(こにしゆきなが)の暴走なども手伝って、的確な指揮を執ることができず、病を理由にして帰国してしまいます。
1593年
再びの朝鮮出兵と、出家
再び朝鮮に渡った官兵衛でしたが、今度は秀吉の立てた策の是非について、石田三成らと対立。無謀な作戦を直接諌めるべく帰国するも、秀吉からは「軍令違反だ」と罵られ、朝鮮へと追い返されてしまいます。
やむなく朝鮮へと戻り、城郭の建築などに携わる官兵衛でしたが、同年の8月に突如として出家。名を「如水軒円清(じょすいけんえんせい)」と号して、剃髪してしまいます。
その際の官兵衛は死を覚悟していたようで、息子である長政に向けて遺書まで用意していたようですが、なんとか秀吉に赦され、九死に一生を得ることとなりました。
1598年
豊臣秀吉の死
官兵衛の主君であり、天下人であった秀吉がこの世を去り、天下の趨勢は一気にきな臭いものに。徳川家の台頭と、それに反目する勢力とのいがみ合いが各地で起こり、天下は再び乱世へと突入していこうとしていました。
そんな天下の情勢について知らせてきた吉川広家(きっかわひろいえ)に対し、官兵衛は「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」――つまり、天下を揺るがす大きな戦があるだろうと、後の関ケ原の戦いを予見する手紙を送っています。
1600年
関ケ原の戦い、勃発
関ケ原の戦いでは、黒田長政率いる黒田軍は東軍として参戦。秀吉に恩のある武将たちを数多く東軍に引き込み、かつ武功を立てて活躍しました。
一方、九州に待機していた官兵衛も、突如として挙兵。瞬く間に9000人もの即製軍を作り上げ、九州各地を転戦。黒田家の領土を広げていきました。
この時の官兵衛の挙兵は、関ケ原の戦いに乗じて、天下を狙うための挙兵だったとも言われていますが、実際には天下を狙う野心からではなく、単純な領土の拡張を狙っての出陣だったと、現在では言われています。
1601年
大幅な加増を辞退。隠居生活へ
関ケ原の戦いでの活躍により、息子である長政は12万石から52万石への大幅な加増とともに、秀吉の朝鮮出兵に基づいて整備された要地、福岡への移封が決定。
その父である官兵衛に対しても、家康は東国や中心部への移封と加増を提案しますが、官兵衛はこれを辞退。以降の官兵衛は、政治など、天下の趨勢に関わることのない、穏やかな隠居生活を送ります。
隠居した官兵衛は、幼い頃に好み、その道を夢見た和歌や連歌を再開。この時代の武将としてはトップクラスの腕前と称された他、屋敷に町の子供たちを招き入れ、思う存分遊ばせたり、ふらりと街に出向いては子供たちにお菓子を配って回ったりと、子供好きで穏やかな好々爺として、多くの人々から親しまれたようです。
1604年
黒田官兵衛、穏やかに逝く
1604年4月19日、京都の伏見藩邸にて、官兵衛は静かに世を去りました。享年は59歳。祈祷文とロザリオを胸に置き、家臣との絆の証を懐に入れての、穏やかな死であったそうです。
官兵衛の葬儀はキリスト教の形式で行われ、遺体はキリスト教墓地の近くの林に埋葬されたと伝わっています。
また、官兵衛は、自分の死に伴う家臣の殉死を遺言で禁止。これにより、優秀な家臣団を数多く残すことになった黒田家は、紆余曲折がありながらも、長く福岡藩を統治していくこととなるのでした。

黒田官兵衛の具体年表

1546年 – 1歳「黒田官兵衛、誕生」

後の天才軍師、姫路に誕生する

官兵衛は、天文15年(1546年)12月22日に、現在の兵庫県である播磨国の姫路城で、黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれます。幼名は万吉(まんきち)でした。

姫路藩歴代藩主居城姫路城

当時の播磨は、下剋上が横行する、群雄割拠で混沌とした状況でしたが、幼い官兵衛はまだそんな情勢は露とも知らず、両親やその家臣、父の主君である小寺家の面々からも可愛がられ、すくすくと成長していきます。

そんな彼は、7歳で読み書きを習い始めると、和歌や連歌に興味を持ちはじめます。武芸の才も人並み以上にあり、武芸の鍛錬を好む一面はあったようですが、それよりも和歌や連歌を好み、その道で身を立てることを望むような文化系の少年だったそうです。

文武に秀で、鍛錬を好む武士らしさを持ち合わせつつも、それ以上に文化的な事柄に興味を示す少年時代を送った官兵衛。彼が天下に名を轟かせる機会は、まだまだ巡ってきてはいませんでした。

1559年 – 14歳「母の死」

母の死により、塞ぎ込む日々

官兵衛が14歳の頃、突如として母親が急逝。その突然の死にショックを受けた官兵衛は、引きこもって文学に耽溺するようになってしまいます。

祖父の持っていた歌集を読みふけり、母の死を悼む歌を詠むなど、どんどん悲しみを深めていく官兵衛。そんな塞ぎ込む日々は、1年ほど続いたようです

円満の言葉で立ち直り、武家の男としての強さを目指す

武家の人間らしく武術に精進する

そんな官兵衛の様子を見かねたのが、官兵衛が7つの頃から、彼に学問を教えていた円満(えんまん)という僧侶でした。

塞ぎ込み、武士を辞めて和歌や連歌の道を生きたがる官兵衛に、円満は「こうしていつまでも悲しんでいることを、母君が望んでいると思うのですか?」「今は乱世である以上、和歌よりも軍学を学び、強く在らねばなりません」と説得。

その説得に感銘を受けた官兵衛は、母への思いを振り切り、武家の男として強くなることを決意。歌集ではなく兵書を読み、弓術や剣術、馬術の鍛錬に、より一層励むこととなるのです。

1561年 – 16歳「元服と仕官」

元服。「官兵衛」の名を名乗り始める

文武の鍛錬に励んだ万吉少年は、1561年に元服。名を万吉から孝高(よしたか)と改め、通称を官兵衛と名乗り始めます。

仕官。小寺政職の近習として取り立てられる

姫路城

元服した官兵衛は、それとほとんど同時に最初の主君と出会います。官兵衛の最初の主君は、父が使える小寺政職(こでらまさもと)。その出会いは、豊臣秀吉と石田三成の出会いのエピソードと、少しだけ似たものでした。

黒田家の居城、姫路城の改築が終わり、政職がその様子を見に来た時の事。政職の目に止まったのは、キビキビとした様子で御膳を運ぶ、官兵衛少年の様子でした。そのキビキビとした所作と、細かなところによく気が付く性格を気に入った政職は、官兵衛をスカウト。

官兵衛もそれを受け、政職の近習として80石の禄を受けることとなるのでした。

1562年 – 17歳「初陣」

父と共に出陣。鮮やかに勝利を収める

小寺政職の近習として仕えることとなった官兵衛は、土豪である浦上宗景との戦いで初陣。17歳と言う、平均よりもやや遅い年齢での初陣ではありましたが、彼は父と共に出陣し、奮戦。見事に勝利を収めています。

この頃から、若く、強く、思いやりがある若武者として、官兵衛の名声は高まり始めたらしく、それに伴って黒田家への仕官を希望する者が増え始めます。

1564年 – 19歳「婚礼襲撃事件。妹の死」

赤松政秀による婚礼襲撃事件、勃発

官兵衛に悲劇的な事件が起きる

室津(現在の兵庫県)の勢力、浦上家の婚儀を、その敵対勢力である赤松政秀(あかまつまさひで)の軍勢が襲撃。浦上清宗(うらがみきよむね)と、その父である浦上政宗(うらがみまさむね)、そして清宗と婚儀を上げていた官兵衛の妹(一説では姉とも)が殺害される事件が発生します。

史実かどうかは定かではないとされるエピソードではありますが、この話が現実にあったのだとしたら、若き官兵衛が受けたショックは並大抵のものではなかっただろうことが察せられます。

赤松政秀との対立

また、赤松政秀は後に官兵衛と戦場で敵対することとなり、官兵衛率いる黒田家の死に物狂いの抵抗によって、撤退に追い込まれることとなります。もしかすると、黒田家の抵抗の強さには、この時の事件が大きく影響を与えていたのかもしれません。

また、この1年後である1565年には、栗山善助(くりやまぜんすけ)が黒田家に仕官し、官兵衛の側近となります。彼は後に利安(としやす)と名を改め、黒田二十四騎、黒田八虎と謳われる、黒田家の重臣として重用される人物となります。後に、囚われの身となった官兵衛を救出する大役を担うこととなる善助ですが、官兵衛はこの時の彼の仕官に対し「こういう者が欲しかった」と口にし、善助の朴訥とした礼儀正しい人間性を絶賛したとされています。

1567年 – 22歳「結婚。そして、黒田家の当主に」

官兵衛の結婚

6才下の妻光との結婚

若く、強く、思いやりのある若武者として官兵衛の名が播磨に知れ渡ってくると、官兵衛の周囲は彼の結婚を考え、何かと世話を焼いてくるようになります。
特に、官兵衛のことを幼いころから知り、彼のことを高く評価している主君、小寺政職は何かと世話を焼きたがったようで、自身の姪である櫛橋光(くしはしてる)との結婚を官兵衛に勧めます。

光の生家である櫛橋家は、播磨の中でも有力な勢力。当時の結婚は政治的な思惑で行うのが一般的だったため、官兵衛はその婚姻を承諾。光と官兵衛は祝言を上げ、夫婦となるのでした。この時官兵衛は22歳、光は16歳でした。

光は大柄で才色兼備な女性だったらしく、体格は官兵衛よりも大きかったと伝わっています。また、政略的な結婚ではありましたが、夫婦の中はとても良かったようで、側室が当たり前の時代の中、官兵衛は生涯、光ただ一人だけを愛し続けたそうです。

父の隠居により、黒田家当主に

黒田家家紋 黒田藤

官兵衛と光の婚儀の最中、官兵衛の父、職隆が宴席でさらりと隠居を表明。当初、家臣たちは冗談だと考えたようですが、職隆は本気だったようで、45歳と言う若さで早々に隠居してしまいます。

その影響で、官兵衛は妻を娶るのとほとんど同時に黒田家の当主に。父から家老の職と姫路の城も譲り受け、黒田家の若き当主として立つことになるのでした。

1568年 – 23歳「長男、松寿丸の誕生」

長男、松寿丸の誕生

黒田長政

この年、官兵衛と光の間に、長男が誕生します。松寿丸と名付けられたその子は、後に人質として織田家に送られ、ある危険に晒されるも、周囲からの助けによって、どうにか難を逃れて成長。

武勇で名を馳せる猛将、黒田長政(くろだながまさ)として成長した彼は、後に福岡藩の初代藩主となって、黒田家の長い安泰を支えることとなるのです。

1569年 – 24歳「青山・土器山の戦い、勃発」

織田家と将軍勢力の連合による、播磨侵攻が開始

この頃になると、播磨内部の小競り合いは激化。更に、そのことを好機と見たのか、足利義昭と結んだ織田信長も、播磨へと侵攻を開始してきます。

信長は2万もの軍勢を秀吉に預け、播磨を手中に収めるべく猛烈に侵攻。黒田家はもとより、その主家である小寺家や、同盟勢力である浦上家も、織田家による苛烈な侵攻に晒されることとなってしまいます。

青山・土器山の戦い(あおやま・かわらけやまのたたかい)

名軍師としての才能を発揮

官兵衛の治める姫路城に攻めかかったのは、将軍と結んだ赤松政秀の軍勢。官兵衛たち黒田家にとっては、浦上家との婚儀を襲撃し、官兵衛の妹を殺害した、まさに仇敵と言ってもいい人物です。

兵力は、政秀の軍勢が3000人に対し、官兵衛の軍勢はわずか300人。10倍の兵力差という窮地。普段なら頼みにできる小寺、浦上からの援軍も、どちらも侵攻を受けている現状では期待できない。そんな絶体絶命の状況の中、官兵衛の軍師としての才が目覚めます。

官兵衛は、自軍が少兵であることを逆手に取り、奇襲戦を展開。2度にわたって赤松政秀の軍勢と激突し、播磨の反織田勢力、三木通秋(みきみちあき)の援軍にも助けられる形で、なんとか赤松の軍勢を撤退に追い込むことに成功します。
黒田家にも多大な犠牲が出たようですが、自軍の10倍もの敵を撤退に追い込む辺り、官兵衛の軍師としての才覚を示すエピソードであると思います。

母里太兵衛の仕官

母里太兵衛

この頃、後に先述の栗山善助と並び、黒田二十四騎、黒田八虎と謳われることになる、母里太兵衛(もりたへえ)が黒田家に仕官してきます。仕官当時の太兵衛は14歳。後に槍の名手であり、戦国屈指の豪傑として語られる片鱗を見せるような頑固者であり、手の付けられない暴れ者だったと言われています。

そんな太兵衛の性格を危惧した官兵衛は、既に黒田家に仕えて長くなった栗山善助と太兵衛を引き合わせ、「太兵衛、今日からお前は、善助を兄と思って、様々な事柄について指示を仰ぐように」と伝えます。善助と太兵衛は義兄弟の契りを交わし、その誓紙は官兵衛が管理することとなりました。

元来素直な性質だったらしい太兵衛にとって、官兵衛の目論見は大当たり。善助は太兵衛をよく可愛がり、太兵衛は善助を大いに慕ったようです。また、この時の誓紙が、後に官兵衛のエピソードとして登場することになるのですが、そのエピソードについては、年表を読み進めていただけると幸いです。

1575年 – 30歳「小寺家共々、織田の配下へ」

官兵衛の決断

織田家に付くことを決意

信長包囲網により、織田家からの播磨への侵攻は一時中断。しかし、信長は数年の間に包囲網の有力な軍勢を悉く撃破。東の強国であった、甲斐の武田家をも討ち破り、天下の趨勢は、一気に信長へと傾きつつありました。

そんな状況の中、官兵衛はある決断を下し、主君に対して進言します。

「小寺家のため、我々は織田の旗下へと入るべきです」

当時の天下取りの中で、有力な勢力とされていたのは、東の織田家と西の毛利家。しかし、毛利家の中でも特に優秀だった謀将、毛利元就(もうりもとなり)は既に亡く、跡を継いだ毛利輝元(もうりてるもと)は、たしかに優秀な人物ではありましたが、天下を取れるほどの器量はない。官兵衛はそう考えたのでした。

官兵衛からの進言を小寺政職は承諾。政職は官兵衛を使者として、信長のもとへと送り出すのでした。

信長との対面

織田信長の浮世絵

小寺家からの使者として岐阜城に出向いた官兵衛は、後の主君、羽柴秀吉の仲介を経て、信長に謁見を果たします。

信長は当初、官兵衛が名乗っても振り返ることすらしないような不機嫌な状態だったようですが、官兵衛がその智謀の冴えを披露すると、信長の態度は一変したようです。

官兵衛のことをいたく気に入った信長は、名刀として名高い「へし切長谷部」を官兵衛に対して譲渡。更に、初対面の官兵衛を、播磨攻略、ひいては中国地方攻略の副官に任じたとも言われています。

そして、この播磨・中国攻略の総指揮官こそが羽柴秀吉。「秀吉の軍師・黒田官兵衛」は、正にここから始まったと言えるでしょう。

1577年 – 32歳「「秀吉の軍師・黒田官兵衛」の目覚め」

織田配下として、数々の功績を上げる

織田の配下、ひいては秀吉の部下となった官兵衛は、数々の合戦を経て頭角を現すようになっていきます。

中国攻めの接結を生み出した、3月の英賀合戦では、敵が水軍であることを逆手に取った奇襲戦を展開。毛利軍5000の兵を、自軍の僅か500人の兵で退ける大金星を挙げ、信長と秀吉から高い評価を得ています。

松永久秀

また、同年10月、松永久秀(まつながひさひで)との決戦となった信貴山城の戦い(しぎさんじょうのたたかい)では、秀吉に前線基地として、居城である姫路城を提供。以降姫路城は、中国攻めの有用な前線基地として活用されることとなります。この時代の活躍を皮切りに、彼は秀吉の参謀として天下に名を知られるようになっていくのです。

松寿丸を、人質として織田家に送る

この年、官兵衛は息子である松寿丸を、人質として織田家へと送っています。
松寿丸は人質と言う立場ではありましたが、当時子供がいなかった秀吉・おねの夫婦から、我が子同然に可愛がられて過ごしたようです。しかし翌年、松寿丸には人生最大の危機が迫っているのでした。

1578年 – 33歳「官兵衛、囚われの身に」

中国攻めが本格化

この年になると、中国攻めが本格化。織田家と毛利家という二大勢力の激突に、漁夫の利を狙う者や、機に乗じて謀反を起こす者、息を潜めていた反織田勢力などが暴れ出し、中国攻めの情勢は一気に混沌としたものになっていきました。
官兵衛はその最中も、謀将と名高い宇喜田直家(うきたなおいえ)を調略するなど、秀吉の参謀として多くの手柄を上げていきます。

荒木村重の謀反で窮地に

しかし、直家を調略したのもつかの間、今度は織田家の重臣であり、官兵衛とも旧知の仲だった、荒木村重(あらきむらしげ)が謀反。更に、官兵衛にとっては主家でもある小寺家も、村重に続いて離反を表明してしまいます。

織田家の中でもそれなりの地位にあった村重。その謀反を重く見た秀吉は、交渉に長ける上、村重と旧知でもある官兵衛を使者として派遣します。使者として村重の治める有岡城に出向いた官兵衛は、謀反をやめるように説得を試みますが、失敗。拘束され、劣悪な環境の地下牢へと放り込まれてしまいます。以降、官兵衛は1年もの間、暗く湿った劣悪な環境の地下牢で過ごすこととなるのです。

その頃、織田家では…

松寿丸(黒田長政)

村重によって囚われ、音信不通となってしまった官兵衛。謀反や下克上が横行する情勢なだけに、信長は「官兵衛も織田を裏切ったのではないか?」と疑念を持ってしまいます。官兵衛をよく知る同僚、竹中半兵衛は「官兵衛は忠義者です。謀反を起こすはずはない」と信長を窘めますが、信長は聞く耳を持ちません。
官兵衛への疑念を強めた信長は、秀吉に対して、ある冷酷な命令を下します。

「人質である松寿丸を殺せ」

命令を受けた秀吉は悩みます。松寿丸は、可愛い我が子も同然の存在。だが、主君である信長に逆らうことなどできない……。板挟みの状況に悩む秀吉に対して、半兵衛はある策を講じるのでした。

また、当主不在となった黒田家の指揮は、隠居した父、黒田職隆がとっていました。一説では、官兵衛の妻・光を「御本尊」として黒田家を纏め上げていたそうですが、史実かどうかは五分五分と言った具合の、創作の度合いが強いエピソードのようです。

1579年 – 34歳「有岡城、落城」

有岡城が落城。官兵衛、救出される

栗山善助

官兵衛が消え、半兵衛が病に没しても、中国攻めは続いていました。激化する戦況の中、10月に、官兵衛が捕らえられている有岡城が落城。官兵衛は一年にも及んだ地下牢生活から、ようやく解放されます。

城に火の手が回り、焼け死ぬことを覚悟した官兵衛を救出したのは、若かりし官兵衛に仕官を申し出てくれた栗山善助でした。善助は衰弱しきった官兵衛を背負い、有岡城を脱出します。

助け出されたときの官兵衛は、髭は伸び放題。過度なストレスからか、髪は殆ど抜け落ちていたほか、皮膚病を患って、頭皮は醜い瘡に覆われていたそうです。中でも酷い状態だったのは、左ひざの関節。長い幽閉生活で曲がってしまったその関節は、終生治ることは無く、以降の官兵衛は、平時には杖をついて歩き、合戦時には輿に乗って指揮を執っていたそうです。

再会と、恩人の死

助け出された官兵衛は、善助に向けて「松寿丸の墓参りがしたい」と呟きます。牢の中で、冤罪とはいえ、自身の咎によって息子が殺されたことを知らされていた官兵衛。その悲しみは、想像するに余りあるものだったでしょう。

しかし善助は「お喜びください」と続けます。「松寿丸様は、生きておいでです」。その言葉を聞いた官兵衛が、どれほど救われた気持ちになったか。それも想像するに余りあるものだったと思います。松寿丸の生存には、竹中半兵衛が大きく関わっていました。

竹中半兵衛

信長の命令と、自分の気持ち。その板挟みになって苦悩する秀吉に対し、半兵衛はある献策をしたのです。彼は秘密裏に、家臣の屋敷に松寿丸を匿わせました。処刑した首が本人かどうかを確認する「首実検」と呼ばれる作業には、よく似た別人の首を用意し、あたかも松寿丸を処刑したと、信長に見せかけました。そうすることで、半兵衛は松寿丸を密かに匿ったのです。

信長に真実が露見すれば、いかに秀吉や半兵衛であれ、ただでは済まなかったでしょうが、半兵衛は見事に、官兵衛の救出が成され、その無実が証明されるまで、松寿丸を守りきったのです。

しかし半兵衛は、官兵衛の救出の数か月前に病によって死去。囚われの間に帰らぬ人となった恩人に、官兵衛はいたく感謝したそうで、彼の形見である軍配と軍団扇を、終生大事に扱った他、黒田家の家紋を半兵衛が使っていたものに変更するなど、その感謝の念を忘れることはなかったと伝わっています。

1580年 – 35歳「中国攻めの激化、小寺家の滅亡」

激化する中国攻めと、主家、小寺家の滅亡

三木城の模擬城壁

救出された官兵衛が織田家に帰参したころ、秀吉は別所長治(べっしょながはる)が治める三木城の攻略に当たっていました。後世に「三木の干殺し」と伝えられる、凄惨な兵糧攻めに耐え兼ね、長治と主だった家臣たちは、兵士や民の助命を条件に自害。三木城は落城します。

そんな状況の中、荒木村重の謀反に乗じた小寺政職が敗走。実質的に小寺家が滅亡状態となったため、以降の官兵衛は、織田家に直接使える身となったようです。また、このあたりから官兵衛は自身の苗字を「黒田」に一本化。以前までは主に、主家の苗字であった「小寺」を名乗っていたようですが、歴史書にはこのあたりから、「黒田官兵衛」として名が記されるようになっていきました。

1581年 – 36歳「「鳥取の飢え殺し」」

凄惨さを増す戦場「鳥取の飢え殺し」

鳥取城跡

吉川経家(きっかわつねいえ)が治める鳥取城の攻略に乗り出した秀吉と官兵衛は、三木城よりもさらに徹底した兵糧攻めを展開。商人から米を買い占め、付近の農民や町人を鳥取城に避難させ、その状況で兵糧の補給を絶つという、あまりにも凄惨な策を展開し、たまりかねた鳥取城はわずか3カ月で落城の憂き目に。

この時の鳥取城の内部は、それは酷い有様だったらしく、「餓死者の肉を食べていた」という記録すら残っています。

1582年 – 37歳「本能寺の変、勃発」

本能寺の変、勃発

錦絵 本能寺焼討之図

中国攻めが終わりに近づく中、秀吉に一つの知らせが舞い込んできます。それは、京都・本能寺にて、織田家の重臣である明智光秀が突如として謀反。それを受けた信長が奮戦の末に自害した、という驚愕の知らせでした。

敬愛する主君の突然の死に呆然とする秀吉でしたが、官兵衛はその状況を冷静に分析。いまや天下取りの第一勢力だった織田家の当主、信長の突然の死は、秀吉にとっては窮地でもあるが、同時にチャンスでもありました。

状況をすぐさま見極めた官兵衛は、毛利輝元との和睦と、光秀の討伐を秀吉に進言。これを呑んだ秀吉は、即座に毛利輝元と和睦。現在で言う「中国大返し」を行い、光秀を討伐すべく山崎へと向かいます。山崎の戦いで、光秀と激突した秀吉の軍勢の中、官兵衛は天王山に布陣。明智軍と死闘を繰り広げ、秀吉の勝利に大きく貢献しました。

官兵衛の大失敗?秀吉に疑心を植え付ける

類稀な軍師としての才覚によって、今まで数々の窮地を逃れてきた官兵衛でしたが、ここで一つ、後にまで影響を与える、ある大きな失敗を犯しています。それは、信長の死を知らされた秀吉に対して掛けた言葉です。信長の死の知らせに呆然とする秀吉に対して、官兵衛はこう声を掛けたそう。

「殿、これで天下取りへのご武運が開けましたな」

秀吉の天下を望んでいた官兵衛が、つい口にしてしまった本心なのか、はたまた呆然とする秀吉を立ち直らせるための方便だったのか。その言葉の狙いに関しては、現在では窺い知ることはできません。

豊臣秀吉

しかし、信長の死を冷静に俯瞰し、あまつさえそれを「武運が開けた」とすら言ってしまえる官兵衛に対し、秀吉は強い恐れを抱いたと言われています。事実として、天下を取った後の秀吉は「家康よりも誰よりも、儂は官兵衛が怖い」と口にしており、「奴に100万石も与えれば、すぐに儂から天下を奪い取ってしまう」と、彼に対して冷遇とも言えるような扱いをしています。

友人である小早川隆景から「頭がよく回る切れ者である分、即断即決をしてしまい後悔することが多い」と評されていた官兵衛。正にその言葉通り、大事な時期に、後にまで響く失敗を犯してしまうのでした。

1583年 – 38歳「大阪城の築城に携わる」

大阪城の築城開始

再建された大阪城天守閣

この年の4月には、賤ケ岳の戦いが勃発。実質的な信長の後継者を決める決戦でしたが、秀吉は相手方の柴田勝家(しばたかついえ)を破り、名実ともに信長の後継者として、天下にその名を知らしめます。

それと時を同じくして、秀吉は居城、大阪城の築城を開始。官兵衛の築城の才能を高く評価していた秀吉は、官兵衛に大阪城の「縄張り」を任せることにしました。「縄張り」とは、簡単に言ってしまうと、城の全体像の設計の事。戦に対する備えや、平時の居住性、城そのものの規模や外観など、様々なことを考えねば務まらない大仕事です。

そんな大仕事を官兵衛は成し遂げ、見事大阪城の骨組みを作り上げます。その設計がいかに優れていたのかについては、戦国末期の大戦「大阪の陣」が、端的かつ中立的に、記録として語ってくれています。

1585年 – 40歳「四国攻めと、キリスト教への入信」

四国攻め

信長の後継者として勢いを強める秀吉は、四国に対して侵攻を開始。官兵衛は宇喜田秀家の軍に軍監として同行し、先鋒として参戦しました。

この時の戦いでは、官兵衛は先鋒としての働きの他、四国を統べる勇将、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)の作戦を見抜き、自軍の損害を軽度なものにすると言う、地味ながら的確な、切れ者軍師としての活躍も見せています。

キリスト教に入信

キリスト教に入信

この頃、官兵衛はキリスト教の教会に通い始め、入信。洗礼名を授かることになります。官兵衛の入信には、キリシタン大名として名高い高山右近(たかやまうこん)、蒲生氏郷(がもううじさと)による、熱心な布教が影響したそうです。
また、信長と秀吉もキリスト教に寛容な人物だったことから、官兵衛も以前よりキリスト教には興味を持っていました。そのことも入信に繋がったのだと考えられています。

キリスト教に入信した官兵衛に与えられた洗礼名は「シメオン(ドンシメオン)」。官兵衛の入信の翌年には、息子の長政と弟の直之も入信。長政はダミアン、直之はミゲルの洗礼名を授かっています。

1586年 – 41歳「勘解由次官への任命と、九州征伐開始」

勘解由次官への任命と、九州への出兵

大友宗麟像

この頃、官兵衛は従五位・勘解由次官への叙任を受けます。 そしてそれと時を同じくして、秀吉は南部を押さえるべく九州の平定を計画。九州の中でも有力な勢力の一つだった大友家の大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に従いましたが、薩摩を治める島津家は、秀吉に従うことを拒否。秀吉の配下となった大友家に戦を仕掛けます。

武勇で鳴らす島津の軍勢に攻められた大友家は、秀吉に救援を依頼。これを受諾した秀吉は、島津討伐のために軍を九州に向かわせます。官兵衛も九州へ向かう軍に軍監として従軍し、九州平定のための戦いの多くに参加。多くの功績を残しました。

1587年 – 42歳「九州平定が完了。12万石の大名に」

九州平定

4月、抵抗を続けてきた島津家が遂に降伏。九州は秀吉の支配地となり、秀吉の意向は日ノ本南部においては盤石なものとなります。九州平定の戦後処理の際には、官兵衛はその事務方としての能力を発揮。後に朝鮮出兵のための要地となる博多の復興を、石田三成と共に監督しています。

豊前国12万石の大名に

広大な土地を手に入れる

九州平定での功績から、秀吉が官兵衛に対して与えたのは、豊前国の殆どである、12万石の領地でした。大幅な加増ではありましたが、今までの官兵衛の働きに比べると、それに見合った大きさではなかったようで、黒田家の家臣団からも不満の声が上がっていた、という逸話が残っています。

この功績と評価の隔たりに関しては、秀吉が官兵衛を恐れ、大きな領地を与えることを痛がったから、と言う説が有力です。また、豊前に移って早々、豊前の国人たちと、九州平定によって改易されたことに不満を持つ勢力による一揆も勃発。息子である長政が鎮圧に乗り出すも、これは失敗におわってしまいます。その失敗を受けた官兵衛は、やむなく持久戦の構えを取り、徐々に一揆を鎮圧していきました。こうして九州の大名となった官兵衛。しかしそのスタートは、順風満帆なものとはいかなかったようです。

1589年 – 44歳「息子・長政に家督を譲る」

家督を譲り、秀吉の側近へ

大分県中津城

九州の平定も終わり、黒田家の居城となる中津城も完成。国人らによる一揆もなんとか平定し終えた官兵衛は、44歳と言う若さで、黒田家の家督を息子に譲り渡してしまいます。一説では、家督の譲与と一緒に隠居してしまうのでは、と考えた秀吉から慰留も受けたようですが、官兵衛に隠居の考えはまだありませんでした。

家督を息子に譲り渡した官兵衛は、中津城を息子に任せ、自身は大阪屋敷や京屋敷を拠点に生活。黒田家当主としてではなく、側近として引き続き秀吉に仕えるのでした。

1590年 – 45歳「小田原征伐。堅城を無血開城させる」

小田原征伐

小田原城

この年、秀吉の天下を決定づけることになる大戦、小田原征伐が勃発。小田原を治める北条家は、武田信玄や上杉謙信と競り合った先代、北条氏康(ほうじょううじやす)の代から比べると、明らかに弱体化していましたが、その居城である堅牢な戦城、小田原城の防備は健在でした。

城の堅牢さを当てにして立てこもる北条。単純に激突しては敵にも見方にも大損害が出る状況でしたが、官兵衛はここで、その交渉力を発揮します。

小田原城の無血開城

立てこもる北条家の当主、北条氏直(ほうじょううじなお)と、その父である北条氏政(ほうじょううじまさ)に対して、官兵衛は使者として接近。彼らの説得を試みます。

北条氏直

秀吉に従うことで、北条家の再興への道が開けるかもしれない。その説得が功を奏したのか、北条家は小田原城を開城。ここに秀吉の天下が決定づけられます。
この時の官兵衛の働きは、敵味方問わず賞賛されており、秀吉からは、息子の長政に対してあてた手紙に「官兵衛の働きのおかげで、小田原征伐が成し遂げられた」という感謝の言葉が残されています。

また、敵方であった北条氏直からも、北条家の家宝である名刀「日光一文字」を譲り受けたと言われています。

1592年 – 47歳「文禄の役に出兵。しかし……」

文禄の役

釜山鎮の戦い(1592年)

日ノ本の統一を成し遂げた秀吉は、朝鮮への出兵を計画。その側近であった官兵衛も、総大将である宇喜田秀家(うきたひでいえ)の軍監として朝鮮に渡りました。

しかし、文禄の役の戦場では、平時より不仲で有名だった加藤清正(かとうきよまさ)、小西行長(こにしゆきなが)の二名が、互いへの嫌悪感を優先させてしまい暴走。

個々で見ると優秀な武将である彼らの暴走によって、思うように指揮を執れない官兵衛は、病であるという理由を付けて、日本へと帰国してしまいます。

1593年 – 48歳「再び朝鮮へ。そして出家」

再び朝鮮へ出兵

蔚山籠城図屏風

病を理由に帰国した官兵衛でしたが、秀吉に命じられ、再び朝鮮へ渡ることになります。

しかし今度は、秀吉が計画した侵攻計画に関して、石田三成や増田長盛(ますだながもり)らと対立。その無謀な計画を諌めるべく帰国し、秀吉に直談判を行うも、秀吉からの答えは予想もしないほど冷酷なものでした。

「こんなところで何をしている」
「お前がここにいるのは、軍令に反しているという事だ。直ちに朝鮮へ戻れ」

秀吉からの冷酷な叱責を受け、やむなく朝鮮へとんぼ返りをする羽目になった官兵衛。当初こそ城郭建築に携わっていた官兵衛ですが、同年8月、彼はある決断を下します。

出家。名を「如水」と改める

突如仏門へ

8月、官兵衛は突如として剃髪。名を「如水軒円清」と改め、仏門の道に入ります。この出家の理由については、先述した石田三成らとの確執が原因となっている、と言う説が有力です。官兵衛と三成一派の対立は、きっかけこそ侵攻計画についての物でしたが、実際のところは、豊臣政権下における主権争いをするために、三成一派から仕掛けられたものであったようです。

そのため、官兵衛は秀吉に対する弁明の機会すら奪われてしまい、その危機を脱するために剃髪し、仏門に入る道を選んだ、というのが現在における通説となっています。

出家した官兵衛は、死罪を覚悟し、長政に対して遺書も書いていたようですが、結果として秀吉からの咎めはなかったようで、官兵衛は九死に一生を得ることになるのでした。

1598年 – 53歳「天下人秀吉、堕つ」

秀吉の死と、情勢の緊迫化

豊臣秀吉が祀られる豊国神社

8月、天下人である秀吉が死去。秀吉の死をきっかけに、豊臣政権内部の権力闘争は激しさを増し、天下の情勢は加速度的にきな臭いものへと変貌していきます。

秀吉の死を受けた官兵衛は、そのことを知らせてきた吉川広家に対して、「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。そのお心得にて然るべき候」と、後に起こる天下を揺るがす大乱――関ケ原の戦いの勃発を予見するような手紙を送っています。

1600年 – 55歳「関ケ原の戦い、勃発」

関ケ原の戦い、勃発

関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡

秀吉の死去以降、豊臣政権内部では徳川家康が台頭。それに不満を持つ石田三成らとの確執を深めていきました。その対立に、かねてより政権内部で対立していた武断派と文治派の対立も重なり、豊臣政権はもはや内部から瓦解した状況に追い込まれて行きます。そのような対立の中、1600年、家康が上杉討伐を諸大名に命じると、家康に反発する三成が、それを阻止すべく挙兵。両軍は関ケ原でぶつかり合うことになり、天下分け目の決戦、関ケ原の戦いが勃発するのでした。

関ケ原にて、黒田家は?

黒田家は、当主である長政が関ケ原に東軍として参戦。多くの勢力を東軍へと引き込む活躍をしたほか、槍働きでも活躍。家康からその働きを絶賛されたという逸話が残っています。

関ケ原の戦いにて、官兵衛は?

『関ヶ原合戦屏風』

黒田長政が関ケ原に出陣している最中、官兵衛も東軍として九州で挙兵。ため込んだ財を解放して、関ケ原にいる本軍よりも大人数な即製軍を編成。九州の西軍勢力を押さえつつ、黒田家の領土を拡張するために、九州各地を転戦します。

この時の挙兵の理由に関して、「関ケ原で家康と三成が争っている中、九州を押さえてそこから天下を狙うつもりだった」とする、「官兵衛の野心による挙兵」説がありますが、現在ではその説は下火のよう。この時の挙兵は、単純に黒田家の領土を広げるための挙兵だった、と言う説の方が、現在では通説となっています。

しかし一方で、関ケ原の戦い後、官兵衛が吉川広家にあてたとされる手紙には、「関ケ原の戦いがあと1カ月でも続いていれば、中国地方にも攻め込んで華々しく戦うつもりだった」と書かれており、「官兵衛の野心による挙兵」説が、一概には否定できない要因となっています。

1601年 – 56歳「大幅な加増を固辞。穏やかな隠居生活へ」

黒田家の大幅加増と、官兵衛への誘い

関ケ原の戦いで華々しく活躍した、黒田長政ら黒田家の面々。その活躍は家康の目にも止まっていたらしく、黒田家は豊前国中津の12万石から、秀吉の朝鮮出兵に際して整備された要地、筑前国名島(福岡)の52万石への大規模な加増と移封が決定されます。

次いで、家康は官兵衛に対しても、江戸近辺や東国への移封と大規模な加増を提案。しかし官兵衛はそれを辞退し、以降は戦にも政治にも関わらない、穏やかな隠居生活へ入っていきます

穏やかな隠居生活

穏やかな隠居生活

戦とも政治とも無縁な隠居生活は、晩年の官兵衛にとってはとても穏やかで、有意義なものであったようです。

彼は隠居後の住まいであった屋敷の門戸を開放し、町の子供たちを入れて存分に遊ばせていたそうです。当然、住まいを汚されることや、障子などを壊されることもあったようですが、官兵衛はそれら全てを鷹揚に許し、決して子供たちに怒鳴り散らすようなことはなかったと伝えられています。

また、ふらりと街に赴いては、城下の子供たちにお菓子を配って歩いていたという、微笑ましいエピソードも残っています。また、幼いころから好んでいた連歌も再開。そのセンスは当時の武将としてはトップクラスの物であったようで、細川幽斎(ほそかわゆうさい)、最上義光(もがみよしあき)らと並ぶ、戦国時代における連歌の名手として名が知られています。

1604年 – 59歳「天才軍師、穏やかに逝く」

黒田官兵衛、静かに逝く

黒田官兵衛の墓

1604年4月19日。黒田官兵衛は、京都の伏見藩邸で、静かにこの世を去りました。享年は59歳。祈祷文と十字架を胸の上に置き、家臣との絆の証を懐に収めたままでの、穏やかな死だったとされています。

辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」。「この世に思い残すことは何もない。あとは迷うことなく、あの世へと旅立つだけだ」と詠んでいることからも、官兵衛の死が、穏やかで満ち足りたものだったことが伝わるでしょう。

官兵衛の死因については、詳しい原因は分かっていません。亡くなる半年ほど前に、有馬温泉に療養に行っていたという記録は残っているため、何かの病による死だと言われていますが、何の病なのか、はたまた死因はその病だったのかについても、正確なことは分かっていないようです。

官兵衛の遺体は彼の遺言に従って、キリスト教の形式で送られました。墓もキリスト教墓地の近くの松林に建てられ、彼の遺体はそこに埋葬されたそうです。

こうして官兵衛はこの世を去ったのですが、彼は死の間際まで、様々なことを息子や家臣たちに遺しています。

官兵衛の死に支度(息子編)

死ぬ直前の官兵衛は、たいそうな偏屈爺に変貌していました。仕えて長い家臣たちからの諌めも聞かず、些細なことで癇癪を起す官兵衛に、家臣たちは困り果ててしまいます。

あまりの横暴さに困り果てた家臣一同は、長政に相談。この事態を重く見た長政は、父である官兵衛を呼びつけ、叱ります。

しかし、叱られた官兵衛は長政に対してこう返したのです。

偏屈で家臣も手を焼いていた

「それこそが儂の望むところだ。先代である儂が嫌われるだけ嫌われてから逝けば、今の当主であるお前は、儂と比べてとても名君であると映る。そうすれば家臣たちは、一層の忠節をお前に対して尽くしてくれるだろう」

まさに深謀遠慮。自らの死後の黒田家、そして子である長政のことを考える、官兵衛の優しさと頭脳が何より表れたエピソードであると思います。

また、官兵衛は自身の死後、遺言によって家臣の殉死を禁止。これにより長政のもとには、戦国乱世を生き抜いた盛況かつ忠義に厚い家臣たちが集うこととなり、黒田家は以後長い間、福岡藩を治めていくこととなるのでした。

官兵衛の死に支度(家臣編)

栗山善助と母里太兵衛の義兄弟の契りは、先述した通りです。織田信長が台頭する時代から、戦国乱世の終結まで。その長い戦乱の時代を、官兵衛と共に生き抜いた彼らは、ある日、官兵衛から呼び出しを受けます。

二人を呼び出した官兵衛は、ある古びた紙を見せて、こういったそうです。

「これはあの時、お前たちが義兄弟の契りを結んだ時の誓紙だ。本当ならもうお前たちに返さねばならないだろうが、この紙は最後まで、お前たちの義兄弟の契りを守ってくれた。この頼もしい誓紙を、儂は是非とも冥土まで持っていきたいと思っている。すまないが、儂が死んだらお守りとして、この紙を棺に入れてほしい」

そう言って笑った官兵衛は、3人の絆の証である誓紙を、大事そうに懐にしまったそうです。

黒田官兵衛の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

軍師の門 上 (角川文庫)

半兵衛、官兵衛の「両兵衛」をメインに据えた小説作品です。

上巻では半兵衛、下巻では官兵衛がメインで活躍し、二人の軍師の対比構造が分かりやすい文章で描写されています。

若干キャラクター性が付け加えられ、史実と離れた部分はありますが、官兵衛について知る入門書としてはちょうどいい作品だと感じました。

黒田官兵衛 秀吉も一目おいた天下人の器

官兵衛の人物像について、丁寧に掘り下げられた本です。

官兵衛にまつわる有名なエピソードや、合戦について、ストーリー仕立てで書かれているため、読みやすく、理解しやすい構成になっています。

「軍師・黒田官兵衛」ではなく、一人の人間としての黒田官兵衛を知りたいと言う方にお勧めの一冊となっています。

おすすめドラマ

軍師官兵衛

そのタイトルの通り、官兵衛を主題にした大河ドラマです。比較的最近の作品なので、覚えている方も多いのではないでしょうか。

官兵衛を演じるのは、岡田准一さん。多彩な一面を持つ天才軍師を、鬼気迫るほどの演技力で見事に演じ切っています。

戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち

引用元:TV TOKYO

「二兵衛」である竹中半兵衛と黒田官兵衛の活躍を描いた、7時間にも及ぶ大作時代劇です。官兵衛ファン必見の作品なのですが、2011年の新年に放送され、DVD化がされていないのが残念なところ。

官兵衛を演じるのは、高橋克典さん。若かりし頃の、ちょっと血気盛んな時代の官兵衛を、見事に演じています。

関連外部リンク

黒田官兵衛についてのまとめ

智謀を武器に戦場を掌握しつつ、その心優しく情に厚い人柄で、多くの人物から慕われた黒田官兵衛。

その魅力の一部でも、皆さんに伝えることができたでしょうか?

軍師でありながら情に脆く、時に人間らしい失敗も犯してしまう官兵衛。流麗な風のように、どこまでも天才として戦場を駆け、そして早世した半兵衛とは違い、どこまでも人間的で、もしかすると身近にすら感じる人間性こそが、官兵衛の魅力であると思います。

ライター自身、官兵衛だけのファンと言うよりも、半兵衛も含めた「二兵衛」のファンですので、この記事で官兵衛に興味を持ってくださった方は、是非、関連リンクの『竹中半兵衛について』もご覧になっていただけると嬉しいです(ちなみに、同じライターが書いています)。

それでは、長い時間この記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

コメントを残す