李香蘭は、戦前・戦中に人気を博した女優であり歌手です。その名前と流暢に話す北京語から中国人だと思われがちですが、実際は中国に住む日本人夫妻のもとに生まれた日本人で、日本名は「山口淑子」といいます。生誕100周年を迎え、2020年は李香蘭の映画や楽曲が特集されるなど、今も根強い人気があります。
例えば「何日君再来」という歌をご存知でしょうか?テレサ・テンが歌ったこの曲は、1940年代に李香蘭が日本でヒットさせました。この曲は、作り手の意図とはかけ離れたところで政治的な思想を疑われ、封印されてきた過去を持っています。しかし数多くの歌手たちに歌い継がれ、今日に至るのです。
それはまるで、山口淑子という日本人女性が、純粋に日本と中国という二つの祖国を大切にしようと思い、中国人スター・李香蘭として活躍しながらも、日本からも中国からも裏切り者と言われる口惜しさを抱えた歴史にも通じる気がします。何を言われようと李香蘭は、現在でも高く評価され、時代を超えて今も愛されているのです。
この記事では、李香蘭のエネルギッシュな生涯や功績を、中学生の頃から李香蘭に注目し、その関連本を読み漁っている筆者がご紹介します。
この記事を書いた人
李香蘭とはどんな人物か
芸名 | 李香蘭(戦後は山口淑子、Shirley Yamaguchi) |
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本名 | 大鷹淑子 |
誕生日 | 1920(大正9)年2月12日 |
没日 | 2014(平成26)年9月7日午前10時42分 |
生地 | 中華民国奉天省奉天市北煙台(中国東北部旧満州、現在の中華人民共和国遼寧省灯塔市) |
没地 | 東京都千代田区一番町(自宅) |
配偶者 | イサム・ノグチ(1951-1955)、大鷹弘(1958-2001) |
実父 | 山口文雄 |
義父(父・山口文雄の義兄弟) | 李際春、潘毓桂 |
李香蘭の生涯をハイライト
李香蘭(本名・山口淑子)は1920年、旧満州で生まれました。両親は日本人ですが、父が中国との関わりが深かったため、淑子は北京語を教え込まれ、中国人として女学校にも通っています。そして父の義兄弟であった二人の中国人から、中国名を授かります。そのひとつが後に芸名となる「李香蘭」でした。
健康のために学んだ声楽がきっかけで、淑子は中国人「李香蘭」として歌手デビューします。さらに日本の国策のため、満洲映画協会の看板女優となり、中国人スターとして人気を博すのです。数多くの映画に出演しヒット曲に恵まれるも、日中戦争が勃発していたこともあり、抗日運動も強く、「中国人・李香蘭」と己を偽ることに悩むようになりました。
終戦を迎え、「中国人・李香蘭」は「日本人・山口淑子」であることを公表し、李香蘭という名前に別れを告げます。しかし生涯、戦争で負った心の傷を抱え、日中友好の掛け橋となることが贖罪であるかのように、晩年は政治家としても活躍しました。
戦争の犠牲者ではあるものの、李香蘭は女優・歌手として素晴らしい作品を残しました。そして戦後も好奇心を忘れず、前向きに生きた女性です。
中国名を持つ日本人
李香蘭、山口淑子、シャーリー山口、大鷹淑子、潘淑華。これらは全て同一人物の名前です。一番知名度のある李香蘭という名前は芸名です。本名は山口淑子といい、中国へ移住していた日本人の両親から生まれた日本人です。李香蘭と潘淑華という名前は、父が義兄弟となった二人の中国人の義理の娘になった証としてもらった名前でした。
戦後は山口淑子として女優を続け、アメリカへ渡ってからは李香蘭と響きの近いシャーリー山口という芸名も使っています。その後、大鷹弘と結婚し参議院議員時代は大鷹淑子と名乗っていました。
「お兄ちゃん」と呼んだ川島芳子
李香蘭と川島芳子は、いわば鏡の表と裏のような存在でした。日本人でありながら中国で暮らし、中国語を操り、中国人女優・歌手として活躍した李香蘭に対し、川島芳子は中国人でありながら一時期を日本で暮らし、日本の工作員として活躍した川島芳子。二人の関わりは一時のものでしたが、「ヨコちゃん(山口淑子)」「お兄ちゃん(川島芳子)」と呼ぶ仲でした。
戦後の二人の運命も、正反対のものとなります。中華民国政府から漢奸罪に問われた二人でしたが、国外追放となった李香蘭に対し、川島芳子は銃殺刑に処されました。この量刑の差は、李香蘭は日本国籍であることが証明されましたが、川島芳子はそれが証明されなかったためだとされています。
李香蘭の功績
功績1「音楽で国境を越える」
1945年5月、大光明大戯院という上海一の豪華な劇場で、3日間にわたり李香蘭のリサイタルが開かれました。上海交響楽団という外国人オーケストラをバックに、李香蘭は作曲家の服部良一がシンフォニック・ジャズにアレンジした「夜来香幻想曲」を歌い上げます。
すでに日本の敗戦の色が濃くなっている時期でした。このような日中合作音楽会が上手くいくのか、関係者はドキドキしながら当日を迎えます。しかしこのリサイタルは大好評でした。チケットにはプレミアが付き、観客の9割近くを中国人と租界に住む外国人が占めました。皆が李香蘭の歌に酔いしれ、自然に踊り出します。
圧倒的な音楽の素晴らしさの前では、この企画が日本人のものであろうと、そして李香蘭が日本人であろうと中国人であろうと、関係なかったのです。当日にタクトを振った服部良一はこの時、音楽が国境を超えた瞬間を感じたと語っています。
功績2「日中友好の架け橋となる」
今見ても、李香蘭のエキゾチックな美しさにはドキッとさせられますが、その大スターとしての地位は決して彼女の個人的な希望で得たものではありませんでした。あくまでも日本の国策のため、淑子は「女優・李香蘭」に仕立て上げられたのです。
しかし彼女の素晴らしいところは、その状況を受け身にせず、積極的に演技の勉強をし、そして李香蘭として日中友好のために自分ができることを探そうとする姿勢です。その思いは生涯変わらず持ち続け、参議院議員大鷹淑子となってからも、日本と中国のことを思い、政治的発言も積極的に行いました。
その証拠に、淑子が亡くなった際、中国外交部は中日友好事業に貢献した人物であり、冥福を祈りたいと公式に見解を述べています。中国共産党のウェブサイトである「人民網」には李香蘭特集が組まれたほどでした。李香蘭は、死後も日中を繋ぐ存在なのです。