李香蘭(山口淑子)とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績も紹介】

「李香蘭」の名前を授かる

山口一家は、文雄の親友・李際春を頼り、奉天へ移住します。当時の奉天は満州で一番の都会でした。

満州時代の奉天

そして文雄は李際春と義兄弟の契りを結びます。淑子を李際春の義理の娘としたのです。淑子は父の俳号「香蘭」をそのままもらいました。「李香蘭」の誕生です。1933年の春節のころでした。

淑子の中国語も堪能になったので、今度は北京に住む友人・潘毓桂に預け、淑子を留学させることにします。しかし淑子は肺浸潤を患い、留学はしばらくお預けとなりました。

ロシア人リューバ

マダムがリサイタルを開いた奉天のヤマトホテル

ロシア人リューバ・モノソファ・グリーネッツは、淑子の親友でした。肺浸潤を患った淑子に、呼吸器を鍛える方法としてクラシック歌曲を勧めたのがリューバです。淑子はリューバの母の紹介でイタリア人オペラ歌手マダム・ポドレソフに弟子入りします。

李香蘭が初めて立った舞台が今もホテル内に残されています。

マダムは毎年リサイタルを開いており、淑子はその前座を務めます。奇しくもこれが歌手「李香蘭」が生まれるきっかけになるのです。

国籍不明の歌手「李香蘭」

1932年に満州国誕生とともに開局した奉天放送局は、一般の中国人にもっと聴いてもらいたいと「満州新歌曲」という国民歌謡番組を企画していました。その専属歌手として「中国人少女である」「譜面が読める」「北京語を話せてかつ日本語も理解する」という条件をクリアする人を探していたのです。

当時の奉天放送局ではアナウンサーとして森繁久彌も働いていました。

淑子はその条件に叶う少女として奉天放送局から声がかかり、歌手・李香蘭としてデビューします。放送では経歴の紹介を省いたため、淑子は日本人の手で作られた中国人となったのです。

1934〜1937年 – 14〜17歳「北京留学時代」

戦前の北京の様子

中国人「潘淑華」

潘毓桂

1934年、淑子は北京に住む華北地方政界の大物・潘毓桂の養女「潘淑華」として翊教女学校に通うようになります。

現在の盧溝橋

淑子は将来、政治家の秘書か新聞記者になるつもりだったので、潘毓桂のもとで勉強をしていました。しかし抗日運動は激しくなる一方で、中国人・潘淑華として生きる日本人・山口淑子にとっては暮らしづらい日々が続くようになります。1937年7月には盧溝橋事件が起き、治安はさらに悪化しました。

川島芳子との出会い

淑子が川島芳子と初めて会ったのは1937年のことでした。川島芳子の義父・川島浪速と山口文雄は繋がりがあり、東興楼という芳子の経営する料亭で父に引き合わせてもらったのが最初でした。

川島芳子は松本に住んでいた頃には馬で学校に通っていました。

川島芳子は本名を愛新覺羅顯㺭といい、清朝の皇族です。日本人川島浪速の養女となり、学生時代は日本で過ごしました。芳子は日本軍に協力するだけでなく、数人の日本軍人との関係もあり、1940年ごろからはその存在を疎ましがられるようになります。

川島芳子は笹川良一の手引きで当時は九州にいました。

淑子が川島芳子に最後に会ったのは、川島芳子が日本軍による暗殺命令を知って日本へ逃げていた時のことでした。自分が利用され捨てられた身の上であり、淑子はこうなってはならない、自分のやりたいことをするべきだといった訓戒のような内容がしたためられた便箋を、淑子は受け取っています。

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