1946〜1950年 – 26〜30歳「山口淑子としての再出発」
日本映画で銀幕復帰
帰国後は山口淑子という本名で女優として復帰します。背景には、中国から家族が引き揚げてきて、淑子が一家の家計を支えなくてはならない事情もあったようです。1950年に出演した映画「醜聞」は監督を黒澤明、主演を三船敏郎が務めました。
ハリウッドデビュー
最初はハリウッド見学が名目の短期アメリカ旅行でしたが、淑子はきちんと英語や演技の勉強をしたいと考えるようになり、アクターズ・スタジオで指導を受けるようになります。アメリカでは映画やミュージカルに「シャーリー山口」という芸名で出演しました。
1951〜1955年 – 31〜35歳「芸術家たちとの出会い」
イサム・ノグチとの結婚
世界的彫刻家のイサム・ノグチに出会ったのはニューヨークでした。中国に生まれた淑子とアメリカに生まれたイサム・ノグチは、あやふやな祖国に対する思いや、そのせいで戦争に苦悩させられた経験が重なり、惹かれあっていきます。
また、お互いに芸術家として尊敬していました。だからこそ、互いの仕事に支障をきたす場合は友人として円満に別れることを条件にして、淑子はイサム・ノグチのプロポーズを受け、結婚を決意します。しかし第一線で活躍する女優と彫刻家の共同生活は難しく、1955年に離婚しました。
チャールズ・チャップリンに学ぶ
イサム・ノグチは淑子に喜劇王として知られるチャールズ・チャップリンを紹介します。チャップリンから淑子は女優として大いに影響を受けたようです。
シャイな青年ジェームズ・ディーン
淑子は俳優ジェームズ・ディーンとも交流がありました。「エデンの東」の大ヒットでスターダムにのし上がっていた彼でしたが、普段はシャイな若者だったと淑子は自伝に書いています。
ジェームズ・ディーンは1955年9月、交通事故で24歳という短すぎる生涯を終えますが、その時に彼が乗っていたポルシェに淑子は乗せてもらったことがありました。ドライブが好きで、買ったばかりのポルシェに淑子を乗せ、恥ずかしげな笑いを浮かべていたといいます。
1956〜1973年 – 36〜53歳「2回目の結婚」
女優引退
淑子はブロードウェイミュージカルや香港での映画に出演するなど、女優として活躍を続けましたが、外交官の大鷹弘と出会ったことで、女優としての自分を葬ることを決断します。
1958年「東京の休日」という映画で20年の女優生活に終止符を打ちます。淑子と同い年の原節子の呼びかけに応じて、三船敏郎や越路吹雪など東宝オールスターが勢揃いする豪華な引退作品となりました。
大鷹弘との結婚
大鷹弘は当時30歳であり、外交官としてはまだ駆け出しの頃でした。そのため、女優である淑子との結婚は彼の将来を潰すことになると多くの人が反対します。そこで淑子は、自分の女優人生に幕を下ろすことで一人の女性として大鷹と添い遂げる覚悟を決めたのです。
1958年に結婚してからは公に姿を見せなかった淑子でしたが、1969年、フジテレビのワイドショー「三時のあなた」の共同司会を引き受けます。当時のワイドショーは硬派な内容も扱っており、1973年には日本赤軍の重信房子とのインタビューに成功し、テレビ大賞優秀個人賞を受賞しています。