李香蘭の名言
日本は私に生命を与えたけど、中国は私に中華の心を与えてくれた。
日本人の両親を持つ山口淑子にとって、日本人であるということはゆるぎのない事実でした。しかし一方で、中国で生まれ、中国で育ち、中国人の義父や兄弟姉妹に囲まれた生活を送り、中国人として女学校にも通った淑子には、中国人としての心も育ったのは当然のことです。
二つの祖国を持った李香蘭は、そのことで苦しむこともありましたが、後年はそれが得がたいこと、幸せなこととも感じていたのかもしれません。
李香蘭の人物相関図
李香蘭にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「李香蘭を見に10万人が集まる?!」
1941年、淑子は紀元節を祝うため、東京の日本劇場で李香蘭としてショーを行うことになります。この日、李香蘭をひと目見ようと10万人もの人が劇場に押し寄せました。あまりの人混みに、淑子自身も楽屋口に辿り着けない有様で、帰る時も劇場の非常口からどうにか脱出するほどの混乱ぶりでした。
この出来事は「日劇七まわり半事件」とも呼ばれます。1941年といえば、太平洋戦争開戦の年です。真珠湾攻撃は12月なので、2月の紀元節にはまだこうした娯楽も残っていましたが、それでも徐々に制限されるようになってきていました。
李香蘭の人気というだけではなく、民衆が閉塞した社会に風穴を開けてくれる華やかなものを求めていた結果、こうした混乱が起きたのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「キスシーンの勉強のためにハリウッドデビュー?」
山口淑子は1950年、演技の勉強をしようとアメリカに渡ります。その際に開いた記者会見で、アメリカで何を学びたいかと聞かれた時に、淑子はこう答えました。 「キスの勉強をしたい。」翌日の新聞には ” Kiss me, please.” という見出しが出て、アメリカで大ウケとなりました。
これには理由がありました。当時、日本では映画の撮影でキスシーン自体が珍しく、撮影時は関係者以外をセットから締め出すほど神経質なものでした。監督が物干し竿で役者の足元をつつくのがキスの終わりの合図だったといいます。そのため、アメリカでラブシーンの勉強をしたいという淑子の思いは、冗談ではなく本気だったのでしょう。
李香蘭の生涯年表
1920〜1933年 – 1〜13歳「撫順・奉天で過ごした幼少期」
山口家の長女・淑子の誕生
1920年2月12日、山口文雄とアイ夫婦の長女として淑子は生まれました。のちの李香蘭です。淑子の祖父にあたる山口博が士族出身の漢学者であったため、父・文雄は中国語が堪能であっただけではなく、中国に親しみを感じていました。
文雄は1906年に中国へ渡り、南満州鉄道株式会社で働くようになりました。アイは中国に住んでいた叔父のもとで暮らしており、文雄とは撫順で知り合い、結婚しています。そのため淑子は、日本語と中国語を話すバイリンガルな少女時代を過ごすのです。
平頂山事件
淑子は小学生時代までは撫順で平穏な日々を送っていました。しかし日本と中国の関係は、日に日に悪化していきます。
1931年9月、柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こります。1932年3月には満州国が建国され、中国人による抗日運動は激化し始めます。そして9月15日、撫順襲撃事件(楊柏堡事件)が勃発したのです。
撫順襲撃事件とは、抗日を叫ぶ匪賊が撫順炭鉱を襲撃し、日本人5人が殺害された事件でした。関東軍の撫順守備隊はその報復として、平頂山集落の住民を大量殺戮します。平頂山の人々が抗日ゲリラを支援していたという嫌疑でした。3000名近くの民間人が殺されたという記録もあります。
淑子は自宅の窓から、中国人を憲兵が拷問する場面を目撃しています。さらに父・文雄は裏切り行為を疑われ、憲兵に拘束されました。容疑は晴れたものの、撫順に住みづらくなり、山口一家は引っ越すことになります。