李香蘭(山口淑子)とはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や功績も紹介】

1938〜1945年 – 18〜25歳「大スター “李香蘭” 誕生」

満洲映画撮影所

成り行きで銀幕デビュー

1938年、淑子の女優への道は突然開かれました。きっかけをもたらしたのは、父・山口文雄とも親しかった関東軍報道部の山家亨という軍人です。

李香蘭のデビュー作「蜜月快車」

その山家が淑子に満洲映画協会の山梨稔を紹介します。山梨は、満洲映画協会は満州人が満州人のために映画を製作する国策会社であり、淑子にもそれに協力して欲しいと持ちかけたのです。今度製作する音楽映画の歌の吹き替えをお願いしたいというのが最初の依頼でした。

マキノ光雄

淑子は歌だけならという軽い気持ちで引き受けます。しかし現場へ行ってみるといつの間にやら女優としてデビューすることになりました。この時の製作部長はマキノ光雄で、淑子は「いつもマキノさんの口車に乗せられる」と語っています。女優・李香蘭のデビュー作は「蜜月快車」という娯楽映画でした。

満洲映画協会の専属女優

映画に出演はしたものの、淑子は女優になるつもりはありませんでした。しかし満映は淑子の両親と話をし、「李香蘭」との専属契約を取り付けていました。淑子は次々に製作される映画に出演していくことになります。

長谷川一夫と李香蘭

満映のスターとして、数々の映画に出演しましたが、「大陸三部作」と呼ばれる3本の映画が特に有名です。二枚目スター・長谷川一夫とのラブロマンス物語で、1939〜1940年にかけて、「白蘭の歌」「支那の夜」「熱砂の誓ひ」が公開されました。淑子はこの共演で、もともと歌舞伎で女形を務めていた長谷川から、女らしさの表現の仕方を学んでいます。

「支那の夜」より

「女優 ・李香蘭」 としての転機となったのは1942年公開の「萬世流芳」でした。阿片戦争の英雄・林則徐を主人公にした話で、製作総指揮や監督は中国の大物が名を連ねました。李香蘭としてこれまで出演した作品はほとんどが日本映画であったので、この作品は淑子を「国際女優・李香蘭」という新たなステージへ引き上げるものとなったのです。

「萬世流芳」(1942年)

しかしこれは同時に、淑子が苦悩の道に引きずりこまれる作品でもありました。李香蘭という女優が認められるにつれ、中国人のくせにこれまではどうして中国を侮辱するような日本映画にも出演したのか?といった記者の質問が上がるようになります。本当は日本人なのに中国人のふりをして中国の人々を騙しているという罪悪感から、引退を意識するようになります。

歌手としての李香蘭

女優としてだけではなく、李香蘭は歌手としての活躍も目覚ましいものがありました。

李香蘭のヒット曲といえば「何日君再来」です。淑子が李香蘭として歌い、レコードも発売され大人気となりました。しかし時節柄、風紀を乱すという理由で発売禁止となってしまいます。

三浦環

作曲家・服部良一とのコンビで世に送り出した曲としては「蘇州夜曲」も知られています。淑子は1941年ごろから日本で国際的オペラ歌手・三浦環の指導を仰ぎ、さらに歌唱技術を磨いていきました。

満映を去る決意

甘粕正彦

淑子は矛盾を抱えた「李香蘭」であることを辞める決意をし、満映を退社するべく、甘粕正彦理事長の元を訪れます。甘粕といえば、無政府主義者・大杉栄らを殺害した甘粕事件が知られていますが、淑子の意思を尊重し、満映の契約を解除する手続きを取りました。このように女優の気持ちも汲み取ってくれると、満映での彼に対する評判は高かったようです。

九死に一生を得る

淑子は終戦を上海で迎えました。「李香蘭」を辞めるつもりではあったものの、それを言い出す機会もなく、中国人「李香蘭」として漢奸罪に問われ、新聞では銃殺刑にされることが報じられていました。

川喜多長政は戦後黒澤明の「羅生門」のヴェネチア国際映画祭出品にも協力しました。
出典:Wikipedia

しかし中華電影公司の責任者を務めていた川喜多長政や、かつての親友リューバの助けもあり、淑子は両親から戸籍謄本を送ってもらい、日本人であることを証明したことで、国外退去という判決が下ったのです。

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