オードリーヘップバーンの年表
1929年 – 0歳「波乱に満ちた幼少期」
ベルギー・ブリュッセルに生まれる
1929年5月4日、オードリーヘップバーンはベルギーの首都・ブリュッセルに生まれました。父親はオーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア出身のジョセフ、母親はオランダ貴族の血筋をもつエラです。両親は再婚同士で、エラにはオードリーの異父兄になる2人の息子がいました。
オードリーの出生名は「オードリー・キャスリーン・ラストン」といい、ヘップバーンという名前は後から母親が付け足したものです。母・エラは家系図マニアで、夫・ジョゼフの血筋にスコットランド女王メアリの3番目の夫ジェームズ・ヘップバーンの末裔を発見したことから自分たちにも「ヘップバーン」という姓を足したのだそうです。高貴な家系であることを証明したかったのでしょうね。
父親が失踪
オードリーが3歳のころ、両親はイギリス・ファシスト連合に参加するようになりました。イギリス・ファシスト連合はそのころイギリスにあったファシスト政党です。さらに父・ジョゼフは過激なナチズムに染まっていき、オードリーが6歳のときには家を出ていってしまいます。
1939年に両親は離婚、オードリーは父親のいない少女時代を過ごすことになりました。けれども女優として有名になった後の1960年代、オードリーは赤十字社の活動を通してスイスで父親と再会しました。オードリーは1980年に父親が亡くなるまで経済的な援助を続けています。
バレエを習い始める
父親が出ていった後、母・エラとオードリーはエラの故郷であるオランダ・アーネムに引っ越しました。そして2年後にオードリーはイギリス・ケント州に渡り、エラムという村の小学校に入学します。ここで彼女はバレエと出会いました。
バレエにオードリーは魅了され、バレリーナを目指すようになりました。父親が出ていった寂しさや母親の厳しさなどを埋めてくれたのがバレエだったのかもしれません。
1939年 – 10歳「第二次世界大戦中の厳しい生活」
オランダに移り住む
イギリスの学校で過ごしていたオードリーでしたが、第二次世界大戦が始まる直前の1939年にオランダに戻ります。その前に起こった戦争・第一次世界大戦でオランダは中立国だったので、起ころうとしている戦争でも安全だと考えられたのです。
1939年からオードリーは地元の音楽学校・アーネム音楽院に通い、普通科目のほかにバレエの授業をとっていました。11歳のときには母親とともに慈善ミュージカルに出演しています。
ドイツ占領下で厳しい生活を送る
多くの人の予想は外れ、オランダは第二次世界大戦でドイツに侵攻を受けて占領下となりました。「オードリー」というイギリス風の名前は危険だと考えた母親は、オードリーに「エッダ・ファン・ヘームストラ」という偽名を名乗らせました。
1944年にオランダでは大飢饉が発生、それでも物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままでした。多くの人が命を落とし、オードリーたちも雑草を食べて飢えをしのいでいたといいます。戦時下でオードリーは栄養失調状態に陥り、オランダが解放されたときにも貧血や黄疸にかかっていたそうです。
そのような状態だったオードリーを救ったのが、後年彼女が親善大使を務めることになるユニセフの前身・連合国救済復興機関(UNRRA)でした。この原体験があったことで、晩年のオードリーは貧しい子供たちに援助する活動に打ち込むようになります。
1948年 – 19歳「ミュージカル女優として歩み始める」
端役で映画デビュー
戦後、オードリーは母とともにアムステルダムへ引っ越し、オランダのバレエ界の第一人者であるソニア・ガスケルのもとでレッスンを再開します。1948年には『オランダの7つの教訓』で初めて映像作品に出演しました。オランダ航空のキャビンアテンダントという端役でしたが、この観光PR映画はオードリーのデビュー作として知られています。
ミュージカル女優としてデビュー
1948年にオードリーは母とともにイギリスに渡り、世界的に有名な舞踊家マリー・ランバートの主宰するバレエ団に学び始めました。それまでバレリーナのなかでも花形を務める「プリマ・バレリーナ」を目指してきたオードリーですが、170センチの身長が高すぎることと戦争中の栄養失調で細すぎることを理由に、師であるランバートからプリマになることは難しいといわれてしまいます。
オードリーはバレリーナになることを諦め、舞台に出演するようになりました。『ハイ・ボタン・シューズ』『ソース・タルタル』などの舞台に出演するうち、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されました。1950年からは映画にも出演し『素晴らしき遺産』『若妻物語』などに端役で登場しています。