マルクスとはどんな人?生涯・年表まとめ【資本論や経済学についても紹介】

マルクスの生涯年表

1818年年 – 0歳「マルクス誕生」

マルクスの生家。現在はマルクス博物館として保存されている

1818年5月5日にマルクスはプロイセン王国トリーアで生を受けました。

兄弟の中でも頭脳明晰で、ギムナジウム(中学と高校を合わせたもの)を優秀な成績で卒業。将来は法律家として父の後を継ぐことを期待されていました。

恵まれた学生時代

マルクスが転校したベルリン大学

1835年、17歳でマルクスはボン大学の法学部に入学します。そこでマルクスは法学を中心に歴史や文学、詩を勉強しました。しかし、生活態度が悪く酒に酔って騒ぎを起こし罰則を受けたり、ピストルの不法所持で警察に連行されたりしています。

また金使いが荒く、たびたび父に金銭の融通をしてもらっていました。これはいけないと思った父親は1836年にマルクスを厳格で知られるベルリン大学へと転校させます。

しかし父親の願いなど知らぬとばかりに、マルクスはベルリン大学でも変わらず放蕩生活。不健康な生活を送っていたためか、冬に病気になります。これがきっかけとなり、マルクスはヘーゲル哲学に出会いました。

ライン新聞のジャーナリストに就職

マルクスが最初に就職したライン新聞

1841年、マルクスは学位を取得し、故郷トリーアへと帰りました。大学教授になる夢を叶えるべく、ボン大学の教授バウアーのもとを訪れます。しかし、バウアーは当時のプロイセン政府による言論統制の動きにより、大学を解雇。大学教授への道が断たれます。

そこでマルクスは論文を寄稿することにしました。検閲が厳しく、なかなかうまく行きませんでしたが、友人が参加していたライン新聞を発見します。バウアーやライン新聞を運営していたヘスの推薦もあり、マルクスはライン新聞に参加。

しかし、ライン新聞は政府の目に余る反政府かつ無神論な内容の記事が多かったため、編集長のルーテンベルグが解任され、その後釜としてマルクスがつきます。政府の目もあってしばらくは大人しくしていた彼ですが、許される範囲内で反封建主義的な主張は止めませんでした。

これがきっかけとなり、プロイセン政府の検閲再強化で引っ掛かり、ライン新聞は廃刊。マルクスは収入を失う代わりに自由を得ます。

1842年 – 24歳「共産主義として歩むことを決意」

共産主義の立場を明らかにしたが革命活動は行っていなかった

盟友エンゲルスとの出会い

1842年、マルクスは『独仏年誌』を発刊するため、フランスのパリへと移りました。マルクスはそこで、生涯の友エンゲルスと出会います。

エンゲルスはブルジョワの子供で、ライン新聞にイギリスの社会状況に関する論文を寄稿しました。マルクスは特にエンゲルスの『国民経済学批判大綱』に感銘を受け、経済学や社会主義、フランスの革命に興味を持ち猛勉強します。

共産主義として立場を明らかにする

アダム・スミスやリカードなどの経済学者、フーリエやプードンなどの社会主義者の本を読み漁り、マルクスはノートにまとめました。このノートはマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に内容をまとめ、『経済学・哲学草稿』という名で出版されています。

マルクスはこの本で、自身の立場を共産主義と定義しました。

1845年 – 27歳「パリ追放」

得るものの多かったパリでの生活

マルクスが出版した『独仏年誌』は人気がなく、発刊から間も無く廃刊となりました。

しかし以降もマルクスは執筆を続けており、1844年にはエンゲルスと共著で『聖家族』を執筆。また『フォールヴェルツ』誌に論文を投稿し、労働者が起こした一揆を支持しました。しかし、この雑誌は日頃からプロイセン王国のフリードリヒ4世を批判していたため、政府から圧力がかかります。

結果、マルクスは1845年に『フォールヴェルツ』に寄稿した外国人として、パリを追放されました。

唯物史観と剰余価値理論の誕生

1845年、マルクスは生産とそれに関連する人間関係が歴史の土台になっているとする唯物史観を生み出し、共産主義思想を確立していきます。この考え方はマルクス最大の特徴として彼の著書でたびたび引き合いに出されました。

また1847年に『哲学の貧困』を執筆し、プルードンが示した労働者の賃金と、労働で生産された生産物が同じ価値だとする主張を批判。両者の価値は釣り合っておらず、労働者に支払われる賃金の価値の方が低いと反論しました。

そして賃金は労働者を奴隷にしていると主張し、剰余価値理論(賃金以上の労働によって生み出される価値のこと)を主張します。とはいえ、この頃は明確な言葉として使用されませんでした。

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