モーツァルトとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や死因も紹介】

モーツァルトにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実はスカトロジストだった!?」

従姉妹のベーズレーもさぞかし驚いたことだろう

モーツァルトは排泄にまつわるジョークが大好きだったそうです。従姉妹への手紙、いわゆる「ベーズレー書簡」と呼ばれる手紙では、

「あなたの鼻に糞をします」
「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった!どういうこと!知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ?ウンコが出たがってる?そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」

といった内容を送っています。このベーズレー書簡は息子に破棄を望まれていましたが、現在6通残っています。モーツァルトが評価された後世では、下品な一面はタブー視されていましたが、現在はユーモアのある人物として許容されています。

下品な言葉を楽譜にも書きつけていたという

また「俺の尻を舐めろ、きれいにきれいにね」という曲を作っています。このタイトルも下品ではあるもののタブーでは当時無かったらしいです。ただしこういった変わった人物像も、生前のモーツァルトが才能の割に優遇されなかった理由にあるのかもしれないません。

都市伝説・武勇伝2「サヴァン症候群だったのかもしれない」

映画「レインマン」でサヴァン症候群が広く知られるようになったという

モーツァルトの奇行の数々と、天才的な一面の同居は一説にサヴァン症候群(発達障害)だったのかもしれないという説があります。理由は例えば手紙のやり取りをしていても、突然大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、トランペットの音を異常に嫌がったりとサヴァン症候群の人が持つ特徴をもっていたからでした。

またサヴァン症候群の人は、記憶力・芸術・計算に優れた能力を有する人が多いといわれており、確かにモーツァルトの天才といわれた才能と変わった性格は、共通点が多いように感じます。今となっては真相はわかりませんが、優れた音楽が多く残された理由の一つだったのかもしれません。

都市伝説・武勇伝3「フリーメイソンに加入していた」

フリーメイソンのシンボルマーク

モーツァルトはフリーメイソンに加入していたといいます。フリーメイソンは現在も続く「世界最古・最大の友愛団体の一つ」といわれています。しかし具体的な活動の詳細は不明となっています。

モーツァルトがフリーメイソンでどのような活動をしていたのかは分かっていませんが、人生の後期に作られた「魔笛」「ピアノ協奏曲第20番」は作風に影響を受けているといいます。そして、仕事が激減してお金に困っていた時に、フリーメイソン仲間に借金をしていたというような話も残っています。

モーツァルトの生涯年表

1756年 – 0歳「ウィーンのザルツブルクで誕生する」

ウィーンのザルツブルクで稀代の天才が誕生する

モーツァルトは1756年に、宮廷作曲家の父レオポルド・モーツァルトと、母アンナ・マリーア・ペルトルの間に7番目の末っ子として生まれました。他の5人の兄妹は乳幼児期に早世しており、5歳上のアンナとヴォルフガングのみが成長することができています。

神童といわれる

幼少期のモーツァルト

モーツァルトの音楽の才能は幼少期から突出しており、3歳の頃からチェンバロを弾き始め、5歳の時には現存する初めての作品が作曲されています。またとても優れた耳も持っていて、父の同僚のヴァイオリンの調律を言い当てたりしています。

この頃には父は息子の異常な聴覚能力と、音の記憶力に気づき、息子の才能を伸ばそうと旅行をさせています。音楽家の中でも非常に恵まれた環境で音楽の知識を得ることができ、モーツァルトは父と同じように音楽家としての道を歩むことになりました。

幼少期のマリーアントワネット、転んだモーツァルトを起こしてあげる優しさを持っていた

またこの旅行は「神童のお披露目」と「就職活動」を兼ねていたといいます。しかしどの宮廷でも、就職活動に失敗しています。そんな中6歳の時に神聖ローマ帝国女帝マリア・テレジアに御前演奏をする機会があり、その時に滑ってこけてしまい手を取った当時7歳のマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話も残っています。

1769年 – 13歳「イタリアに旅行し活躍する」

ミラノではアレグリの「ミゼレーレ」を暗譜したという

1769年から1771年の3年間に、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノ・ボローニャ・ローマを巡回しています。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれています。

イタリア旅行は3度行っていますが、ボローニャでは作曲者であり、教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んでいます。教育の成果はすぐに現れませんでしたが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法を用いています。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国で受けたのです。

アカデミア・フィラルモニカの会員に選出された

1770年にはローマ教皇より、黄金拍車勲章を授与されています。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニの会員に選出されました。しかし同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されましたが、その報酬はわずかなものだったといいます。

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