モーツァルトとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や死因も紹介】

「モーツァルトってどんな人なのかな?」
「モーツァルトの作曲した曲が知りたい!」
「曲の作風も気になる…!」

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはオーストリアの音楽家でハイドン・ベートーヴェンと並んで古典派音楽、ウィーン古典派を代表する一人です。35歳という短命であったにも関わらず多くの音楽家に影響を与え、作った曲は現在でも愛されています。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

性格は非常に癖のある人物だったそうですが、数ある天才の「音楽家」たちの中でも、「下書きをしない音楽家」として際立った天才ぶりを良く耳にする音楽家でもあります。そんなモーツァルトはどういった人物だったのでしょうか?

この記事ではモーツァルトの生涯や作風、性格など、その人物像に迫ります。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

モーツァルトとはどんな人物か

名前ヴォルフガング・アマデウス
・モーツァルト
洗礼名ヨハンネス・クリュソストムス
・ウォルフガングス
・デオフィリス・モザルト
誕生日1756年1月27日
没日1791年12月7日
生地神聖ローマ帝国・ザルツブルグ
没地神聖ローマ帝国・ウィーン
配偶者コンスタンツェ・モーツァルト
埋葬場所ウィーン郊外の
サンクト・マルクス墓地

モーツァルトの生涯をハイライト

1777年頃のモーツァルト

モーツァルトの生涯を簡単にダイジェストします。

  • 1756年:神聖ローマ帝国ザルツブルグで生まれる
  • 1761年:最初の作曲をする(アンダンテハ長調K.1a)
  • 1762年:マリア・テレジアに御前演奏
  • 1763年~1766年:パリ・ロンドン旅行
  • 1770年:黄金拍車勲章授与
  • 1777年:ザルツブルグで職を辞し、ウィーンへ移る
  • 1778年:パリへ移る
  • 1779年:ザルツブルグに復帰。宮廷のオルガニストとなる
  • 1781年:ザルツブルグ大司教コロレドと衝突し解雇される
  • 1782年:コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚
  • 1784年:フリーメイソンリーの慈善ロッジに入会
  • 1788年:「三大交響曲」を作曲
  • 1789年:ウィーンで死去

モーツァルトの作品の作風

軽快で優美な音楽は胎教にも人気だ

モーツァルトの作品は長調で、装飾音の多い優美で軽快な音楽が多いのが特徴です。聴衆にとっては、明るく華やかに聞こえる作品が多いです。これは当時の音楽の流行でもあり、ロココ様式もしくはギャラント様式といわれています。

当時の流行だけではなく、モーツァルトが使っていたピアノが、今のピアノの鍵盤よりも半分くらいまでしか沈まなかったことも作風に影響しているといいます。作風は徐々に幅を広げていき、晩年は長調ではあるものの深い哀しみを帯びた曲を作曲するようになり、「天国的」と呼ばれる作品も増えてきます。また短調作品は数は少ないながらも哀愁あふれる曲調で、現在でも人気の高い作品もあります。

「天国的」と呼ばれる哀愁漂う曲も作曲していた

モーツァルトの時代は、複数のパートからなる一つの旋律が調和し合っていくポリフォニー音楽は流行遅れで、一つの旋律と和音伴奏に別れるホモフォニー音楽が主流となっていました。しかしモーツァルトはバッハヘンデルなどのポリフォニー音楽を研究し、うまく手法を取り入れた作品なども残しています。

神童と呼ばれた幼少期

幼少期のモーツァルト

モーツァルトは幼少時期から天才的な音楽の才能から「神童」と呼ばれました。その天才ぶりは、3歳の時からチェンバロを弾き始め、5歳にして初の作曲をしています(アンダンテハ長調K.1a)。11歳の頃の作曲譜も発見されているといいます。

父レオポルトは早くからモーツァルトの才能を見抜き、幼少期から音楽教育に力を入れています。息子を共にザルツブルク大司教に仕えさせる傍ら、息子をウィーン・パリ・イタリア・ロンドン等に連れて行っています。

女帝マリアテレジアの前で若干6歳にして御前演奏している

そうすることで息子の「神童」ぶりを宣伝し、より良い就職先を探してあげようとしたのですが、どこの宮廷でもモーツァルトの変わった性格の為かことごとく就職活動に失敗しています。そんな就職活動中の1762年に神聖ローマ帝国の王女マリア・テレジアの前で、御前演奏をしたりと活躍の場を広げていきました。

7歳の時にフランクフルトで演奏したときには、たまたま演奏を聞いていたゲーテは、そのレベルは絵画ではラファエロ、文学のシェイクスピアの並ぶと感じたと後に回想しています。

仕事はフリーランスだった

勤めるのでなく仕事を請け負う体制は現在のフリーランスと共通する

モーツァルトはフリーランスの音楽家の先駆けでもあったといわれています。当初はザルツブルクの宮廷音楽家として勤めていたのですが、25歳で職を辞し以後今でいう「フリーランス」の働き方で収入を得ていたのです。

一説には宮廷勤めだと、王侯貴族の好みに作品を作らないといけなかったため、自分の作りたい作品を作りたいというのが動機であったといわれています。こうした働き方はモーツァルトが先駆けで、その後に続くベートーヴェンによって「自分の作りたい音楽を自由に作る」というスタンスが出来上がっていったといいます。

モーツァルトの容姿と性格は?

モーツァルトの肖像画(1789年)

モーツァルトの容姿の肖像画は容姿端麗に描かれることが多いですが、実際は取り立てて優れた容姿をしていたわけではなかったそうです。最初に伝記を書いたニーメチェクによると「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何ひとつ、その大きな才能を示すものはなかった」と評されています。

左がモーツァルト耳

また有力な証言に「21歳の時にかかった天然痘のあとがいくつも残り、丸鼻で近眼」だったという人もいます。身長は163センチと中肉中背で、左耳は奇形で対耳輪上脚と耳垂が欠けていたといいます。この形の耳は今でも「モーツァルト耳」といわれているそうです。

華やかな舞踏会でモーツァルトはかなり悪目立ちをしていただろう

モーツァルトの性格は非常に変わり者だったといいます。舞踏会に出席したら女性のスカートをめくったり、猫の真似をしてぴょんぴょん跳ねたりしていたそうです。モーツァルトの才能があるから大丈夫でしたが、もちろん普通なら出入り禁止になってもおかしくない行動です。

また下ネタも大好きで、妻のコンスタンチェに宛てた多くの卑猥な手紙も残されています。モーツァルトは非常に手紙が好きで、死後彼の家から700通の手紙が出てきたそうです。その手紙の中には自分が飼っていたムクドリが亡くなったときに、ムクドリに宛てた手紙も残っていました。こうした行動から良くも悪くも「子供っぽい」性格が垣間見えるといわれているようです。

死因は合併症が有力だが…?

連鎖球菌はリウマチ熱などの原因となる

モーツァルトの死因は「連鎖球菌咽頭炎による合併症」という説が一番有力です。しかしモーツァルトは謎めいた亡くなり方をしているために、なんと140もの死亡の原因説があり、連鎖球菌咽頭炎も現時点で一番有力というだけで、はっきりした病名は確定されていないのです。

モーツァルトは15日間に渡って高熱と発疹に悩まされたといわれています。連鎖球菌咽頭炎以外には、寄生虫説・ライバルに毒殺されたという説まででました。一時期ライバルのサリエリによる毒殺説もかなり噂になったのですが、現在はほぼ間違いだといわれています。

1 2 3 4 5 6

2 COMMENTS

コメントを残す