モーツァルトとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や死因も紹介】

1777年 – 21歳「ザルツブルクの職を辞し、マントハイムに移る」

マンハイム宮殿でモーツァルトは就職活動をしたが失敗している

モーツァルトは1777年にザルツブルクの宮廷音楽家の職を辞して、ミュンヘン、そしてマントハイムに移っています。パリに行く途中にアウクスブルクにより、モーツァルトがベーズレーと呼ぶ従姉妹のマリア・アンナ・テークラー・モーツァルトと再会し、恋愛関係になっています。

マントハイムは「正確な演奏」「優雅な音色」「クレシェンド」が特徴の「マンハイム派」の音楽が有名でした。モーツァルトはこの地でマンハイム楽派の影響を受けています。モーツァルト自身は「気取ったマンハイム様式」と呼んでいたそうです。

1778年 – 22歳「パリへ移る」

アロイジア・ウェーバー、とても美しい人だったといわれる

モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘のアロイジア・ウェーバーの娘、アロイジア・ウェバーに恋し、結婚を計画しますが、父に大反対されて1778年にパリ行きを命じられています。

3月から9月までの半年間パリにいましたが、受け入れ先のシャボー公爵夫人と反りが合わず稼ぎも悪かったために、モーツァルトにとっては良い場所ではなかったようです。貴族の自邸に招かれて演奏をしますが、報酬は出し惜しみされたといいます。パリには母が同行していましたが、この年に死去しています。

1781年 – 25歳「ウィーンでフリーの音楽活動を始める」

音楽の街ウィーンでフリーで活動するようになった

1781年の25歳の時にザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンに移っています。しかし二か月でコロレドと衝突して解雇され、ザルツブルクを出てウィーンに定住しました。以降はフリーランスの音楽家として、演奏会・作曲・レッスン・楽譜の出版で生計を立てていました。

1782年 – 26歳「コンスタンチェ・ウェーバーと結婚する」

コンスタンチェ、長らく悪妻といわれていたが最近見直され始めている

1782年に以前恋をしていたアロイジア・ウェーバーの妹のコンスタンチェ・ウェーバーと結婚しています。モーツァルトがウェーバー家で下宿して、当時恋していたアロイジアは結婚していたので、コンスタンチェと結婚したといわれています。

コンスタンチェと交際時にモーツァルトは、「3年以内に結婚しないならば違約金を支払う」という約定書を書かせられています。しかし約定書はコンスタンチェが破り捨てだといいます。

ハイドン・セットを進呈する

モーツァルトは2年かけて作曲しハイドン・セットを進呈した

1785年に管弦四重奏曲集の「ハイドン・セット」をハイドンに進呈しています。この作品はハイドンが作曲した「ロシア四重奏曲作品33」に感銘を受けたモーツァルトが、ハイドンが確立した古典形式ソナタ形式を踏まえて、2年余りをかけて作曲したものでした。

モーツァルトは『ハイドン・セット』の出版時に、イタリア語でハイドンに「わが最愛の友」と呼びかけ、この曲集を「長く困難な苦労の果実」と述べて、ハイドンの「庇護と指導のもとにあらんことを」との言葉を贈っています。

ハイドンはモーツァルトが進呈した「ハイドン・セット」を聞いて最も優れた作曲家と賞賛している

曲を受け取ったハイドンは、「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と父のレオポルドに語ったといいます。

1786年 – 30歳「オペラ『フィガロの結婚』が大ヒットしプラハを訪問する」

フィガロの結婚の初演当時のポスター

1786年にはオペラ「フィガロの結婚」をオーストリアのブルク劇場で初演しますが、翌年チェコのプラハで大ヒットしています。この年にベートーヴェンがモーツァルトを訪れたといいますが、公式な記録には残っていません。

この後も楽曲の注文を受けてオペラ「ドン・ジョバンニ」K.527を作曲しプラハエステート劇場で初演しモーツァルト自ら指揮をしています。このことで今でもチェコ人は、「オーストリアよりも先にモーツァルトの才能をいち早く見抜いた」と誇りにしているそうです。

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2 COMMENTS

金正恩

嘘つくなってカスが嘘つくなお前友達いないやろお前のこと誰が好きなん

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