木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

1864〜1866年 – 31〜33歳「薩長同盟の締結」

長州藩の主導権を握った高杉晋作

長州藩内の対立

長州藩が朝敵にされた後、木戸達改革派の藩士達は失脚しています。その後は幕府と協調路線を取る俗論派が藩の実権を握ったのです。

ところが俗論派は、改革派の面々の大規模な粛清を開始。そこで改革派に所属していた高杉晋作がクーデターを起こし、藩の実権を取り戻したのです。

改革派が再び藩政を行うようになった後、木戸は高杉に招かれる形で、再び長州藩の統率者に任命されました。

薩長同盟を締結

慶応2年(1866年)1月に木戸は薩摩藩と薩長同盟を結びます。木戸は薩摩藩の代表者である大久保利通や西郷隆盛、小松帯刀達と会談ん重ねます。同盟のもとで木戸は薩摩名義でイギリスから武器を購入。藩の力を蓄えていきました。

1866〜1868年 – 33〜35歳「第二次長州征伐に勝利」

第二次長州征伐へ向かう幕府軍

第二次長州征伐に勝利する

6月に幕府は朝敵である長州藩に武力行使を行います。これは第二次長州征伐と呼ばれ、軍勢は長州藩が3500に対し、幕府は10万5千。長州藩は圧倒的に不利でした。

ところが長州藩は武器を購入するなどして、力を蓄えていた事もあり、戦いを有利に進めます。7月20日には第14代将軍・家茂が死去し、戦いは休戦。事実上は長州藩の大勝利でした。

大村益次郎

この長州征伐で大活躍をしたのが、村田蔵六(後の大村益次郎)です。村田は長州藩の町医者でしたが、優れた兵術家でもありました。村田の才能を見抜き、藩の中枢に抜擢したのが木戸です。

木戸は伊藤博文や井上馨ら5名を海外に留学させるなど、将来を見据えた人材の登用を行いました。

1868年 – 35歳「明治政府樹立」

明治維新

総裁局顧問となる

慶応3年(1867年)12月9日に新政府が樹立します。木戸はその見識を買われ、総裁局顧問となりました。木戸は五箇条のご誓文の作成に加わった他、版籍奉還や廃藩置県などの政策を実施していきます。

ただ薩摩藩や朝廷、諸藩における考え方の違いは、明治政府が樹立した頃から既に存在していました。木戸は彼らの意見を調整しつつ、一連の改革を行っていきます。木戸は精神的に参る日々が続いていきました。

幾松との結婚

精神的に負担の大きい明治政府の舵取りですが、一方で喜ばしい事もありました。それは幕末に木戸を支えた幾松との結婚です。明治元年(1868年)8月頃に2人は正式な夫婦になります。

江戸時代は身分が違うと結婚出来ない決まりがありました。2人の結婚は身分の差を超えた初めての結婚とされています。

1869〜1873年 – 36〜40歳「明治六年の政変と台湾出兵」

明治維新後の木戸孝允

明治六年の政変

明治4年(1871年)に明治政府は岩倉使節団を派遣します。これは各国を訪問して国書を提出したり、不平等条約の改正が目的にありました。木戸は全権副使として使節団に参加しています。

木戸達は日本と各国の国力の差を痛感。憲法や議会などを取り入れるなど、日本を近代国家にする事が急務だと実感したのです。そのため明治6年(1873年)に西郷が訴える「征韓論」には真っ向から反対しています。

やがて征韓論による論争で西郷や板垣退助達は政府から去りました。ちなみに木戸は使節団から帰国後、脳発作のような病気に悩まされます。この頃から木戸は政務を満足に取り仕切れなくなるのです。

地租改正に対する国民の不満

明治6年(1873年)になると各地で士族や農民による反乱や一揆が起こります。木戸は「農民を重税から解放する事」を目的に地租改正という政策を行いますが、農民の税金はその後も重くのしかかります。

木戸の思い描いた理想と実際の政策には隔たりが生まれていきました。多くの税金を搾取したい政府の間で、木戸は税制を少しでも減らす事を提言。これを認めさせるなど、国民のために奔走を続けたのです。

1874〜1876年 – 41〜44歳「大久保利通との対立と大阪会議」

初代内務卿・大久保利通

大久保との対立

明治六年の政変後に大久保は内務省を創設します。これは国内行政の大半を担う機関でした。初代内務卿には大久保が就任しますが、木戸は「強力な権限を持ちすぎる」と批判しています。

また翌年には政府により、台湾出兵が決定されます。木戸は「征韓論を否定したのに、台湾派兵を行うのは矛盾している」と政府の行動を批判。政府を辞めてしまうのです。

大阪会議

木戸は明治8年(1875年)の大阪会議を経て、再び政府に復帰します。ただ間もなく政府と自由民権活動家との板挟みとなり参議という役職を辞任。新たに内閣顧問に命じられています。

ただ大久保を中心とする政局に不満を抱いていた事は変わりありません。持病の悪化も相まって木戸は少しずつ政治の世界から遠ざかっていくのでした。

ただ明治9年(1876年)に木戸の地元で士族による反乱「萩の乱」が起きた事がありました。その際には反乱の首謀者である「前原一誠」を極刑にするなどの対応をしています。

1877年 – 45歳「木戸孝允死去」

木戸孝允の墓

西南戦争勃発

明治10年(1877年)2月に国内最大の士族反乱である西南戦争が起こりました。木戸に西郷軍の征討に自分を派遣するように希望します。結果的にそれは認められ、木戸は明治天皇とともに京都へ出張したのです。

木戸の持病が悪化する

ところが木戸の病気は更に悪化します。木戸は5月26日に京都の別邸で朦朧状態となりました。木戸は見舞いにきた大久保の手を握ります。そして「西郷もいいかげんにしないか」と言葉を残して亡くなりました。

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