木戸孝允の子孫の現在
木戸の直接の血を引く子孫は現在はいません。ただ木戸家は養子を取り、現在にも続いています。明治2年(1869年)に木戸は妾との間に女児(好子)が生まれますが、男児に恵まれなかったのです。
木戸は慶応2年(1866年)に妹・治子と夫・来原良蔵の次男・正二郎を養子に取りました。ところが正二郎は明治17年(1884年)に24歳で死去。木戸家は急遽、正二郎の兄の孝正を養子に迎えます(治子と良蔵の血筋は断絶)。
明治18年(1884年)に孝正と、木戸の唯一の子どもである好子は結婚します。ところが好子は1887年(明治20年)に病死。木戸の血を引く者はこの時点でいなくなるのです。結果的に孝正が木戸家の当主となりました。
孝正は後に再婚し二男二女をもうけます。子孫として有名なのは、長男の木戸幸一でしょうか。彼は戦時中の内大臣で、A級戦犯として終身刑判決を受けています。
現在の木戸家の当主は木戸寛孝氏です。彼は木戸幸一の孫にあたり、木戸孝允から数えて玄孫になります。彼は世界連邦21世紀フォーラムの代表など、多方面で活躍中です。木戸家は血筋を変えつつも現在まで続いているのです。
木戸孝允の功績
功績1「五箇条の御誓文を加筆!明治政府の基本方針を立ち上げる」
慶応4年(1868年)3月14日に明治政府は政府の基本方針である「五箇条の御誓文」を発布します。五箇条の御誓文の修正案に加筆をしたのが木戸でした。五箇条の御誓文の第1条は以下の通りです。
広く会議を興し万機公論に決すべし
第1条はもともと「広く会議を興し」ではなく「列侯会議を興し」でした。列侯とは大名です。つまり五箇条の御誓文は、大名同士で話し合い物事を決めるという解釈でした。木戸はそれを皆で話し合いをするという内容に変えたのです。
ちなみに木戸が想定した「皆」とは、この時点では国民全体の事を指していません。「明治政府に加入した者達全員という意味」です。この時点では平民まで会議に参加して、物事を決めるという考えはありませんでした。
やがて1880年代になると、自由民権運動は高まりを見せます。この時に「国会を開け」と運動家達が声を挙げたのは「広く会議を興し」というフレーズが根拠になりました。
木戸が加筆を加えた一文は、日本に国会を導入するキッカケになったのです。
功績2「岩倉使節団に随行!征韓論に反対し、日本を戦乱から救う」
征韓論とは「朝鮮を武力によって開国させよう」という考え方です。明治6年(1873年)の明治政府は西郷隆盛による征韓論推進派と、大久保利通と木戸孝允による征韓論反対派という対立が生まれていました。
なぜ木戸は征韓論に反対したのでしょうか。それは岩倉使節団に随行して、欧米の視察をしたからです。木戸は日本の国力が欧米に遠く及ばず、国内の整備をする事が急務だと痛感しました。
結果的に木戸や大久保は、西郷達の主張する征韓論を跳ね除けます。西郷や板垣退助などの征韓論賛成派の人達は、明治政府から去ってしまいます。これが学校の授業でも習う「明治六年の政変」ですね。
木戸が征韓論に反対出来ず、武力で朝鮮を開国させていたらどうなっていたでしょうか。朝鮮のバックにいる清国や、日本の領土を狙うロシアが黙っていなかった事でしょう。そうなれば日本の敗北は間違いありませんでした。
木戸の判断が日本を戦乱から救ったのです。
功績3「大阪会議で政界に復帰!日本に立憲体制を取り入れる」
明治天皇は明治8年(1875年)に立憲政体の詔書を発布します。この詔書の発布には木戸の強い思いが込められているのです。この詔は日本に少しずつ「立憲主義」の原則を取り入れていくと宣言したものです。
征韓論に反対した大久保でしたが、翌年に台湾出兵を推し進めます。木戸は「征韓論を否定したのに、台湾派兵を行うのは矛盾している」と主張。政府から去ってしまいます。
しかし木戸不在の明治政府は、舵取りがうまく行えません。各地で政府に対する不満が顕在化したのです。大久保は「木戸と板垣退助を政府に復帰させたい」と考えました。その為に大阪会議が開催されます。
木戸は政府が独断で色んな政策を取る事に反対していました。木戸は政府に復帰する代わりに、議会制導入などの立憲主義を日本に導入するべきと主張。これは認められ、立憲政体の詔書が発布される事になりました。
当時の日本は政府が全ての政策を取り決め、平民に政治決定権はありません。この立憲政体の詔に伴い「元老院・大審院・地方官会議」が設立されます。木戸の思いは、現在の日本の民主主義につながっていくのです。