木戸孝允の年表
1833〜1840年 – 0〜7歳「和田小五郎誕生」
医者の子として生まれる
木戸は天保4年(1833年)6月26日に長門国萩城下(現・山口県萩市)で生まれます。父親は藩医の和田昌景です。
木戸は長男だったものの、父・昌景にとって54歳の頃の子どもでした。昌景は娘に婿養子をとっていた為、木戸は次男扱いとして育てられます。
桂家の養子になる
天保11年(1840年)に木戸は桂孝古の養子になります。桂家は和田家の向かいにある家で、後継がいませんでした。
木戸は和田家の次男扱いという事になり、桂家の養子に入ったのです。そのため、木戸は幕末に「桂」の姓を名乗りました。
ただ桂孝古はまもなく死去。木戸は桂姓を名乗りながら、引き続き和田家で暮らしています。
1840〜1849年 – 7〜16歳「繊細だった木戸孝允」
悪戯好きながら繊細な少年として育つ
子どもの頃の木戸は病弱ながら悪戯好きでした。萩城下の松本川を往来する舟をひっくり返して遊んでいた事が伝わっています。
ただ嘉永元年(1848年)に母親と次姉が相次いで病死。木戸は病床に臥せります。周囲に出家すると言って聞かなかったそうです。この頃から精神的に病みやすい傾向は見られていました。
吉田松陰との出会い
そんな木戸を変えたのは吉田松陰です。吉田はまだ松下村塾を立ち上げてはいないものの、長州で兵学を教える立場にありました。吉田は木戸を「事をなすの才あり」と称します。
少しずつ木戸は「自分に何が出来るのか」を考えるようになるのです。
1849〜1859年 – 16〜26歳「剣士としての才能と、学問の追求」
剣士として頭角を現す
木戸は剣術に打ち込み、嘉永5年(1852年)に剣術修行のために江戸に向かいます。先ほど述べた通り木戸は練兵館で頭角を現しました。わずか1年で免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となるのです。
黒船の来航
木戸が塾長を務めていた嘉永6年(1853年)に、ペリー率いる黒船が浦賀に来航します。長州藩は浦賀に入港する時の警備を命じられました。木戸は黒船を見て、海外の脅威と国防の大切さを痛感しています。
木戸は江戸にいる間、時代の最先端の知識を学び続けました。例えば西洋兵学・小銃術・砲台築造術・造船術・英語などです。木戸の見識は周りから一目置かれる事になりました。
長州藩江戸藩邸に出仕する
木戸は安政5年(1858年)8月に「江戸藩邸の大検使役」という役職に任命されます。その後、10月に1度目の結婚をしたため萩に戻ります。ただ妻が和田家に嫌になりすぐに離婚。その後は萩で藩士の育成などにあたっています。
1859〜1864年 – 26〜31歳「長州藩で頭角を現す」
藩の意見を破約攘夷論に展開する
木戸は徐々に長州藩で頭角を現します。文久2年(1862年)に木戸は藩内の意見を破約攘夷にまとめました。破約攘夷とは「勅許なしで調印した条約を破棄し、アメリカなどの列強を追い払う」と言う考えです。
幕府は安政5年(1858年)に天皇の許可なくアメリカなどの諸外国と通商条約を結んでいます。全国では幕府が天皇をないがしろにしており、「攘夷を実行すべし」という機運が高まっていたのです。
ただ木戸は「アメリカに日本が勝てるはずがない」と考え、あくまで慎重な姿勢を崩していません。ただ藩内には久坂玄瑞などの過激派は強気な姿勢を崩しませんでした。
長州藩の立場が悪くなる
長州藩の過激派は各地で攘夷活動を続けます。ただ時の天皇・孝明天皇は「穏やかな形での攘夷」を望んでいました。結果的に長州藩士は文久3年(1863年)8月18日に京都から追放されます(八月十八日の政変)。
長州藩士として京都に残る事を許されたのは、京都留守居役という役に任命されたたった3人だけでした。木戸は偽名を使い、京都に潜伏し情報収集と長州の復権を狙いました。
1864年 – 31歳「池田屋事件と禁門の変」
池田屋事件で難を逃れる
京都の潜伏では大きな成果を残せず、木戸は一度帰藩。元治元年(1864年)1月には藩の命令で再び京都に向かいます。そこで尊王攘夷派の諸藩と外交活動を続けています。
6月には池田屋事件が起こります。池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の志士達を、新撰組が襲撃した事件です。木戸は難を逃れて逃亡しています。
禁門の変で長州藩は朝敵に
8月には京都から追放されていた長州藩勢力が、巻き返しを図るために京都で挙兵します。いわゆる禁門の変です。
結果的に長州藩は、幕府側の薩摩藩や会津藩に敗れます。長州藩は過激な行動を続けた結果、朝廷にはむかう朝敵されてしまうのです。
木戸は孝明天皇に「長州藩の朝廷への思いを伝える」ため、孝明天皇が御所から避難する時に直訴する事を考えました。しかしそれも失敗に終わります。木戸は禁門の変を生き延び、各地で潜伏する生活を続けました。