身分を問わずに意見を求める
この事態に正弘は、諸大名はもとより旗本にまで意見を求めます。今までは政治的な判断は江戸幕府が行うものという暗黙の了解がありました。そのため、外様大名や一般庶民が物申すことのできるという状況は、のちの公議政体論に通じる画期的な形式であったと言えます。
この方法が実現したのは、人の話をよく聞いて自分の主張をあまりしない正弘の性格もあったでしょうが、ペリー来航に対する危機意識の高さもあったでしょう。国難であると認識し、広く意見を求めたわけです。
幕府に届けられた意見書は800通にも及びます。中には勝海舟の意見書もありました。諸大名の意見は半数以上が攘夷論でしたが、大砲で狙われたら江戸は火の海になってしまいますので、老中としてそれだけは避けなければいけません。結局、意見がまとまらないまま時だけが過ぎてしまいます。
海防掛
正弘は外国船の来航に対する諸問題を担当し、海岸の防御を目的とした海防掛に、川路聖謨(としあきら)や岩瀬忠震(ただなり)といった才能ある人物を抜擢し、行政機関としての側面を持たせます。海防掛はのちの外国奉行です。
この人事は功を奏し、川路聖謨はロシアとの交渉を担当し、才能ある官吏だとプチャーチンが高く評価しました。岩瀬忠震は「幕末三俊」の一人であり、安政の五カ国条約の実務担当者となりました。
日米和親条約
1854年1月、ペリーが再び来航します。正弘の最大の目標は戦争回避でした。そのため正弘は鎖国を終わらせて国を開く決断をします。しかし、幕府の統制が及ばない自由貿易を行うことは許可したくないと考えた正弘は、開港はするが通商は拒否という、鎖国下に近い状況を守り抜いた条約締結に成功します。
実際、1859年に貿易が始まると、国内では大混乱となります。輸出が大幅に増えて金貨が海外に流出したことで物価が上がり、庶民の生活が苦しくなります。その不安が条約を調印した江戸幕府への反感となり、尊王攘夷運動に繋がっていきました。そう考えると、江戸幕府の老中として締結した日米和親条約は最善の策だったと言えます。
老中首座を退任
1855年10月2日、安政の大地震が江戸を襲いました。特に深川や本所の被害が酷く、江戸の死者は1万人前後と言われています。正弘は条約問題だけで相当疲弊していた状況に、地震からの復興という事態に直面し、老中職には留まるものの首座からは退くことにしました。
また、首座を降りた理由として、幕閣内での開国派の井伊直弼との対立もありました。攘夷派の徳川斉昭の意向で開国派の老中を更迭したことに対し直弼が反発したため、正弘は老中首座を退き開国派の堀田正睦(まさよし)を据えたのです。
老中のまま迎えた最期
1857(安政4)年6月17日、正弘は老中職に就いたまま生涯を閉じました。享年39歳でした。死因は定かではありませんが、肝臓癌を患っていた可能性が指摘されています。海防掛の川路聖謨は日々の睡眠時間は2時間であったと述べていますが、これだけの激務で健康でいることの方が難しかったことでしょう。