功績3「日米和親条約を締結 」
阿部正弘は1854年に締結した日米和親条約の日本側担当者でした。内容は、下田と箱館を開港すること、燃料や食料を供給すること、アメリカにのみ最恵国待遇を認めることでした。最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と結んだ条約で、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を認めた場合は、アメリカにも自動的にその条件を適用することです。
列強諸国と戦っても勝ち目がないのは明らかで、正弘としては戦争回避が一番の目的でした。さらに、国内が混乱する危険性のある自由貿易は認めないという正弘の主張を通した内容となり、最恵国待遇に関しては不平等な条約ではあったものの、当時あの状況下で締結した条約としては最善の内容だったと考えられます。
阿部正弘の人物相関図
阿部正弘にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「大奥の女性たちに大人気」
阿部正弘は大奥の女性たちに大人気でイケメンだったという説があります。しかし肖像画を見ても、肥満体型だったという話からしても、そこまで騒ぎ立てるほどのイケメンとは思えません。どうやら見た目からくる人気ではなかったようです。
過去に大奥での不祥事を上手く収拾した手腕が徳川家慶に認められたことがきっかけで、正弘は出世街道を上り詰めた経緯がありました。そして20代という若さで老中に抜擢され仕事ができたこと、人の話をよく聞いてくれる性格、こういった内面のカッコよさが大奥の女性たちを夢中にさせたようです。
阿部正弘の年表
1819(文政2)〜1835(天保6)年 – 1〜17歳「阿部家の六男として誕生」
備後福山藩主の六男として誕生
阿部正弘は1819(文政2)年10月16日、備後福山藩主5代目阿部正精(まさきよ)の六男として江戸西の丸の老中役宅で生まれました。母は高野貝美子という側室です。正精は儒学や国学だけではなく、洋学や天文学、絵画など幅広い分野に関心を持ち、学問や文化を奨励しました。そのため、備後福山藩はこの時期が文化最盛期となっています。
正弘は正精が教育係に指名した柴山敬蔵や門田朴斎に儒学や馬術、槍術を学びました。門田は頼山陽の塾にも通った儒者です。