父の他界
父である正精は老中として徳川幕府第11代徳川家斉に仕えていましたが、病により1823年に退任し、1826年に息を引き取りました。嫡男の正粹(まさただ)は廃嫡され相続権を失っていたため、備後福山藩主の座は正精の三男である阿部正寧(まさやす)が継ぎます。
しかし正寧は病弱であったため政治に積極的に取り組む姿勢が見られず、正弘に家督を譲って隠居しました。
1836〜1842年 – 18〜24歳「幕府の出世街道を駆け上がる」
第7代備後福山藩主
1836年、正弘は第7代備後福山藩主となり、1837年に福山へお国入りします。これが結果的には藩主として最初で最後の福山滞在となりました。
奏者番と寺社奉行
1838年、武家の典礼を行う奏者番に就任します。奏者番は譜代大名から選ばれ、いわゆる出世コースの出発点です。1840年には、奏者番の中からさらに選び抜かれた者が抜擢される寺社奉行も兼任しました。
1843〜1856年 – 25〜38歳「江戸幕府最高職である老中を務める」
老中首座に就任
1843年、正弘は25歳という若さで老中に就任します。アヘン戦争で中国が敗れ(1842年)、押し寄せる列強への対応に幕府は悩みます。1844年にはオランダ国王が幕府に開国を勧告するなど問題が山積したため、天保の改革の失敗で失脚した水野忠邦が老中首座に復帰しますが、問題を解決できないまま老中を辞職しました。
1845年2月22日に正弘は老中首座に就きました。なお、のちに活躍する井伊直弼は「大老」職に就いていますが、正弘は「老中首座」という役職です。「大老」は大老四家と呼ばれる家の者しか就任できない臨時職でした。大老不在の場合は老中首座が幕閣のトップとなります。
ペリー来航
1846年、アメリカ使節ビッドルが浦賀に来航し、通商を求めてきますが、正弘はその要求を拒否しました。この後、フランスやデンマークの艦隊も来航するようになり、正弘は海岸の防御を固めるように指示したほか、浦賀の奉行所に通訳を置いておくなど対策を講じます。
1853年6月3日、ついにペリーが来航します。将軍は第12代徳川家慶でしたが、当時病で寝込んでいました。報告を受けた家慶は、第9代水戸藩主徳川斉昭によく相談するよう正弘に言い残して22日に亡くなりました。
徳川斉昭は外国船は打ち払うべしという攘夷派ですが、大砲を積んでいる黒船を見てその強硬論は鳴りをひそめ、衆議を尽くすべきだと正弘に助言をしました。そこで正弘は、国書は受け取るのでペリーには一度引き取ってもらおうという決断に至ります。話し合う時間が欲しいということです。ペリーは返事をもらいに来年戻ってくると言い残して去っていきました。