源義経とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や死因、子孫も紹介】

イケメンだったともそうでないとも言われるが…

滝沢秀明氏が演じた大河ドラマの義経。一般的なイメージを見事に踏襲している。
出典:PR TIMES

現代に描かれる義経の共通項と言えば、ほぼ間違いなく「イケメン」という要素があげられるでしょう。2005年の大河ドラマ『義経』では滝沢秀明が。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』では菅田将暉が演じることが決定しているなど、そのイメージはほぼ全ての作品で踏襲されています。

しかし記録に残る義経の容姿は、要約するに「色白で小柄。出っ歯なためすぐに分かる」といったもの。いわゆるイケメンという評価につながる記載はほとんど見られず、残念ながら”義経イケメン説”は後世の創作にまつわる部分が大きいようです。

現代のゲームに描かれる義経。流石に美化され過ぎな気もするが、大体の作品でイケメンとして描かれている。

しかし義経イケメン説は、実は江戸時代ごろから脈々と受け継がれる風説でもあります。根拠は薄く、むしろ創作の題材として美化されて行った末の説ではありますが、昔から変わらない人々の本質を表す、中々面白いエピソードなのではないでしょうか。

死の原因は兄との不仲?武人だったゆえの末路

義経を最終的には討伐するまでに至った頼朝。だがその理由は…?

義経の死因が、兄との不仲による逃避行の末の自害であることは、生涯ハイライトでも記載した通りです。しかし頼朝と義経の間には、一概に「不仲」という言葉では表現しきれない数々の確執が存在していました。

このトピックでは、彼ら兄弟がなぜ殺し合うような関係性になってしまったのか、その原因と目されることをいくつか紹介していきます。

源氏の未来への理想像が違っていた

源氏一門の代表的な家紋。「一門を守る」ということへの理想像の違いが、兄弟を引き裂いてしまった。

頼朝は政治に長けた自分が源氏一門を導き、長く一門を繁栄させようと考えていました。そのために彼はある種の人間不信のようになっていたことも、記録から読み取れます。

しかし一方で、義経は「あくまで兄弟は対等であるべき」と考えていました。そのため彼は、頼朝に表だって敬意を払うことはなく、あくまで兄弟として対等に接し続けていました。

”一門の長い繁栄”を重視したと見える頼朝と、”兄弟の絆”を重視したと見える義経。どちらが正しいと一概には言えませんが、兄弟の理想像の差が悲劇を生み出したと言えそうです。

平家討伐における失敗と独断専行

鵯越の逆落としに代表される奇襲作戦は、鮮やかではあるが部下からは疎まれていたとか。

優れた軍略家だった義経は、主に奇襲攻撃で戦果を上げ続けてきました。しかし奇襲は首級の数が大事な当時の戦では、旨味が少ない手段でもあったのです。

そう言う理由もあり、義経の奇襲作戦は「義経一人だけが『勝ち戦の大将』として評価を受けるもの」と、次第に白眼視を受けることに。こうした奇襲攻撃が独断による作戦だったことが多かったのも、そんな評価を後押ししてしまいました。

皇室にとって重要だった三種の神器。取り返す必要があった草薙剣を、義経は取り返すことができなかった。

そしてさらに、義経は壇ノ浦の戦いで致命的なミスを犯します。平家方の安徳天皇が持ち出した三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)。源氏は自分達の正当性を示すため、これを何としても奪還しなければなりませんでした。

しかし義経が独断によって平氏を追い詰めすぎてしまい、結果として草薙剣は安徳天皇と共に海底へ。これによって源氏は朝廷との間に禍根を残すことになってしまい、そのミスを犯した義経もまた、頼朝から不信を抱かれることになってしまったのです。

勝手に冠位を受けて、頼朝の戦後構想を乱した

義経に官職を授けた後白河院。これが決定打となり、頼朝は義経討伐を決定してしまう。

源氏一門の長い繁栄を望んでいた頼朝派、一門の序列に乱れが出ないように、配下の武士たちが勝手に冠位や身分を受けることを禁じていました。

しかし義経はそんな兄の言いつけを軽く見て、後白河法皇に言われるがままに冠位や身分を受けてしまいます。元々並外れた武勇によって公家たちから評価を受けていた義経を危険視していた頼朝でしたが、この一件でそれは確信に。

そしてさらに悪いことに、頼朝の家臣である梶原景時(かじわらのかげとき)が、頼朝に義経の横暴を訴えたことで、頼朝の心は確定的に。その結果として義経は朝敵として、兄によって討伐されることになってしまったのでした。

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