源義経とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や死因、子孫も紹介】

源義経の年表

1159年 – 0歳「牛若丸の誕生」

1歳にも満たない段階での父の死。義経の生涯は不遇から始まったと言ってもいい。

河内源氏の九男として誕生

この年、後に源義経となる少年が誕生しました。幼名は牛若、父は没落しかけた河内源氏を復興させた源義朝、母は雑仕女だった常盤御前です。

武士の家系に生まれたものの、時代は源氏ではなく平氏主流の時代。それも九男という生まれであったことから、義経は権力争いなどとは無縁にすくすく育っていくはずでした。

平治の乱

しかしこの年の12月、平治の乱が勃発。父である義朝はその中心人物として戦いましたが、翌年の2月には謀反人として敗死してしまいます。

これによる処罰を避けるため、常盤御前は牛若と幼い兄弟を連れて大和国(現在の奈良県)へと避難。一緒に避難した二人の兄が出家する中、牛若は宙ぶらりんの状態となってしまいました。

1169年 – 10歳「鞍馬寺で稚児として養育される」

鞍馬寺で稚児になった牛若丸。この時点での彼の人生は、まだ静かなものだった。

鞍馬寺にて名を変える

母である常盤御前が京都の貴族である一条長成と再婚したことで、牛若もまた京都へ帰還。そしてこの年、牛若は鞍馬寺に稚児として預けられることになりました。

そしてそれにあたって、彼は名前を遮那王(しゃなおう)へと変名。牛若丸ほど知られている名前ではありませんが、これも義経を代表する名前の一つとなっています。

天狗の武芸と兵法を学ぶ?

『義経記』において、彼が天狗から兵法や武芸を学んだのもこの時期です。牛若は鬼一法眼から武芸と軍略を学び、ここから日本史上随一の英雄への一歩を踏み出しました。

とはいえ、この辺りは創作の要素が盛り込まれやすい時期であり、義経に付いて確かな記録は残っていないのが現状だとも言えることに注意が必要です。

また、有名な武蔵坊弁慶との出会いについてもこの辺りだったと考えるのが一般的だと思われます。

1174年 – 15歳「元服と逃走」

祖先の名から一字を借りて、少年は義経として乱世へと歩み出した。

源義経の目覚め

この年の3月3日、彼は僧になることを拒否して鞍馬寺から逃走。現在の滋賀県にある鏡の宿を訪れ、そこで自分自身の手で元服を果たしました。

本来であれば元服の儀式では烏帽子親が存在し、烏帽子親によって成人としての名がつけられるのですが、義経の元服には烏帽子親がいなかったため、彼は自ら名前を源九郎義経と改名しました。

”義経”という名は、源氏ゆかりの通字である”義”の字と共に、経基流清和源氏の初代である源経基(みなもとのつねもと)からとったと言われています。

一路奥州へ

こうして元服を果たした義経は、奥州の藤原氏を頼って東北方面へ。

後に彼が無念の最期を迎える奥州の地ではありますが、彼はしばらくの間、その場所で機を窺い続けることになりました。

1180年 – 21歳「頼朝の挙兵」

初めて出会う兄との対面は、義経を描く作品では涙涙の名シーンとして描かれる。

頼朝との対面

この年の8月、源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵。源平の合戦が始まろうとする中、義経も兄の元へと参陣を決めて、藤原秀衡から託された手勢を頼りに鎌倉を目指しました。

そして10月、義経と頼朝は対面を果たすことに。義経にとっては物心ついてからは忌めて見る兄の顔であり、以降彼は頼朝の刃として多くの戦場を駆け抜けていくことになります。

政治家の兄と武将の弟

こうして義経と対面を果たした頼朝は、遠征軍の指揮を義経と源範頼(みなもとののりより)に任せ、自身は政治家として鎌倉の経営に専念する形式を取り始めます。

一見すると適材適所であり、当初こそうまく回っていたこの形態でしたが、これがのちに大きな食い違いを生むことに、当時の彼らは気づいていませんでした。

1180年~1185年3月 – 21歳~26歳「治承・寿永の乱」

義経の英雄的なエピソードのほとんどは、この5年の間に詰まっている。

治承・寿永の乱

一般に源平の合戦と称される”治承・寿永の乱”が勃発し、源氏勢力と平氏勢力の群雄が日本各地で激突。日本のほぼ全土が戦乱に巻き込まれる事態に発展しました。

この大規模な戦で、義経は数多くの活躍が記録されています。歴史書における義経の活躍も、基本的にはこの辺りのエピソードが中心となっているようです。

1184年1月、源義仲討伐

頼朝と敵対した源義仲を討伐する決定打として、義経は歴史書に名を見せ始める。

治承・寿永の乱は、源氏と平氏の戦いというだけではなく、一門の内部における主権争いのような一面も存在していました。そのため、治承・寿永の乱における義経の有名なエピソードの最初は、同門である源義仲の討伐ということになってしまいます。

頼朝との覇権争いに敗れて都落ちした義仲を義経は追討。その軍勢を壊滅寸前まで追い込む大金星を挙げ、源氏内部の主権者が頼朝となる決定打を作り上げることになったのです。

1184年2月、一ノ谷の戦い

鵯越の逆落としは、義経を示す代表的なエピソードである。

義仲を討伐する決定打となった義経は、返す刀で転戦。一ノ谷に陣を構える平氏に対して、鵯越の逆落としを仕掛けて奇襲するという奇策を披露しました。

奇襲を受けた平氏勢力は大混乱に陥り、結果として一ノ谷の戦いは源氏の圧勝という形に。これによって義経は、多くの記録に名を遺す英雄としての立ち位置を得ることになりました。

1184年9月、結婚

平氏との戦いの日々の中、義経は周囲からの勧めによって、河越重頼の娘である郷御前と結婚します。

郷御前と義経の夫婦仲や、郷御前の人物像などはほとんど記録に残っておらず不明ですが、その後に義経が貴族の娘である蕨姫を娶った際も、郷御前は正室としての立場を維持していたようです。

1185年2月、屋島の戦い

那須与一が活躍する”扇の的”の章段で有名な戦いだが、ここでも義経は活躍していた。

この頃になると治承・寿永の乱の戦況は停滞。しかし義経は強硬策を押し通す形で、平氏討伐に向けて兵を迅速に西方へと進めていきました。

平氏の拠点であった屋島では、義経は奇襲からの焼き討ち戦術を敢行。これにより自軍を大軍に見せかけ、見事この戦でも勝利を収めることになりました。

1185年3月、壇ノ浦の戦い

壇ノ浦で平氏一門を滅ぼし、勝利を確定させた義経。しかしそこで犯した失敗が彼の首を絞めることになる。

もはや源氏の勝利が揺るがない状況になる中、遠征軍である義経と範頼は平氏の殲滅を敢行。水軍を編成し、孤立した平氏の残党に襲い掛かりました。

そしてこの戦いで平氏は滅亡。しかしこの時、平氏側についていた安徳天皇と一緒に、三種の神器の一つである草薙剣が水没してしまいます。義経自身はさほど気にしていなかったようですが、この失態が後に彼が悲劇へと突き進む一因となってしまいました。

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