源義経の功績
功績1「源平の合戦の勝敗を決した人物」
源義経の最大の功績は、やはり一般に源平の合戦と呼ばれる”治承・寿永の乱”での大活躍でしょう。義経は一ノ谷、屋島、壇ノ浦と言った重要な戦いのほとんどに参戦し、いずれも平氏勢力を翻弄する大活躍を上げています。
また、義経は平氏一門との戦いだけでなく、頼朝に反旗を翻した源義仲の討伐にも参加。義仲の部隊と交戦して、彼らを壊滅寸前まで追い詰めるという活躍を見せています。
その最期こそ身内から処分されてしまったとは言え、鎌倉幕府の成立という日本史上随一の大事件に、義経の存在が欠かせなかったのは明白でしょう。
功績2「合理的な軍略家でもあった」
源義経が多くの戦で勝利を掴めたのは、彼が当時の価値観にとらわれない合理的な軍略家だったからだと言えます。
当時の戦は基本的には個人戦であり、真正面からの一対一がほとんど。しかし義経はそんなルールや慣例に固執せず、重要な戦のほとんどで奇策や奇襲を用いて勝利を積み重ねていきました。当時としてはちょっとアレな行為ですが、戦略眼としては抜きんでていたとも評価できるでしょう。
ただしこうした奇策は義経だけが用いたものではなく、兄である頼朝や平氏の武将たちも、必要とあらば奇襲や奇策という手段を用いてはいます。とはいえ”鵯越の逆落とし”に代表される、度胸と実力が無ければ成し得ない作戦を成功させているあたり、義経が軍略に優れていたことを疑う余地はありません。
功績3「創作の”分野”にすらなる圧倒的人気 」
坂本龍馬や織田信長のように、多くの物語の主役になる人物は数多く存在していますが、源義経はそんな彼らをして”別格”と言える人気の題材だと言えます。
何せ彼は、創作の題材としてだけでなく「義経物」「判官物」と呼ばれる創作ジャンルを築き上げ、戦国時代から多くの物語の主役となっていた歴史小説の元祖とも呼ぶべき存在なのです。
現代でも人気の源義経ですが、その人気が既に500年以上は続いていると考えると、それもまた面白いつながりであるかもしれません。
源義経の名言
この崖は鹿が下ることもあるか?
鵯越の逆落としのエピソードにおける、義経の軍略家としての一面を表した言葉です。義経の十何で大胆な考えを示す意味では、この言葉が最たるものだと思います。
迅速こそ、勝利である
義経の考え方を示す一言です。奇襲という手段で多くの戦果を上げた義経らしい一言だと言えるでしょう。
鎌倉からの処分を逃れるため京都を離れます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します
頼朝から疑義を向けられ、京都を離れねばならなくなった際に、義経が使者によって朝廷に伝えた言葉です。
この言葉に対しては頼朝派の貴族からも「義経は本当に義理に篤い人物だった」と記されるほど高く評価されています。
源義経にまつわる逸話
逸話1「武芸と兵法を天狗によって仕込まれた?」
正式な歴史書には青年になってからの登場となる義経は、媒体によってさまざまな幼少期のエピソードを創作され、その中にはファンタジーなものも多数存在しています。
その中でも最も代表的なのは「天狗によって武芸と兵法を仕込まれた」というもの。軍記物語である『義経記』の記述によれば、鞍馬寺に預けられていた幼少の義経は、そこで鬼一法眼(きいちほうげん)という天狗によって武芸と軍略を仕込まれたとされています。
もちろん物語にまつわる俗説であり、鬼一法眼についても実在していたかは定かではありません。とはいえ義経の多くの武勇は「天狗によって武芸を仕込まれた」と言われてもさほど違和感がないのではないでしょうか。
逸話2「源義経、モンゴル王になる?」
一般的に源義経は、頼朝によって追討された末に奥州平泉で自害して果てたとされている義経ですが、実は彼には「モンゴルに渡って生き延び、チンギス・ハーンになった」という俗説が語られることがあります。
清の乾隆帝からの書簡に「先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清とした」という一文があったとされたことが発端となり、江戸時代ごろに盛り上がりを見せた俗説こそが、この『義経=チンギス・ハーン説』となっています。
ただし乾隆帝からの書簡だとされるものの出典は信用のおけない資料であり、学説としては明治の段階で完全に否定されていることにも留意する必要があるでしょう。