「ウィンストン・チャーチルってどんな人?」
「映画見て興味を持った!」
ウィンストン・チャーチルは20世紀のイギリスの政治家です。第二次世界大戦期に首相を務め、イギリスを勝利へ導きました。
また文筆業も生涯続けて、多方面に活躍した人物でもありました。そのため現在も、“100人の偉大な人物”というイギリスの調査で1位をとったり絶大な人気を誇っています。
しかし彼がどのような生涯を送ったのか?どのような人物だったのか?を深く知っている人は少ないのではないでしょうか。そこでこの記事ではチャーチルの功績や逸話を含め、その生涯や人物像に迫ってみたいと思います。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
ウィンストン・チャーチルとはどんな人物か
名前 | ウィンストン・レナード ・スペンサー・チャーチル |
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誕生日 | 1874年11月30日 |
没日 | 1965年1月24日 |
生地 | イングランド ・オックスフォードシャー ・プレナム宮殿 |
没地 | イングランド・ロンドン |
配偶者 | クレメンティーン・チャーチル |
埋葬場所 | セント・マーティン教会墓地 |
チャーチルの生涯をハイライト
チャーチルの生涯を簡単にダイジェストします。
- 1874年:オックスフォードシャーのプレナム宮殿で誕生する
- 1894年:オールドショット駐留の軽騎兵第4連隊に配属される
- 1899年:軍を除隊し政治家を志す
- 1900年:庶民院議員として初当選する
- 1908年:クレメンティーン・ホージアーと結婚する
- 1911年:内務大臣となる
- 1915年:ダーダネルス作戦の失敗の責任で閣僚職を辞職する
- 1939年:第二次世界大戦の参戦で海軍大臣となる
- 1940年:首相となる
- 1953年:ノーベル文学賞を受賞する
- 1955年:議員を辞職する
- 1965年:ロンドンの自宅で死去。享年90歳
政治家となり最終的には首相となった人物
チャーチルは軍を退役し庶民院議員になってから、1939年の第二次世界大戦時に海軍大臣、1941年には首相となっています。独裁的な強権をもって戦争を戦い抜き、そのカリスマ性でイギリスを戦勝国に導きました。
しかし実は平和な時、“イギリスの災難”とまでいわれ忌み嫌われていた人物でもありました。戦場でも経済運営でも歴史的な失敗を犯しています。それでも“近代史上最も偉大なリーダー”の一人に数えられているのは絶体絶命という状況で講和という判断をせず、ナチスドイツと徹底抗戦する判断をしたからでした。
そして首相としてチャーチルは、日・独・伊三国と戦い、第二次世界大戦が日本の敗戦で終わるまで、“ヤルタ会談”“ポツダム会談”など終戦に向けての会談に参加したり、世界に存在感を示しました。非常に頑固な考えが首相時は良い方向に働き、戦争が早期終戦へ向かったと考えられています。
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イギリス国民に勇気を与えたチャーチルの演説
チャーチルの演説は、危機に不安を感じる国民をポジティブな方向に持っていったといわれています。チャーチルの演説には“血と労苦と涙と汗のスピーチ”“決して諦めるなスピーチ”など愛称めいたものがつけられ、今も語り継がれています。有名なチャーチルのスピーチに、ヨーロッパでドイツに立ち向かえる国がイギリスしか無くなってしまった時に、以下のような演説をしています。
「もしイギリスとその連邦が1000年続いたならば、子孫が“これこそイギリスの最も輝かしい時であった”と言えるように振舞おう」
最悪の状況を“輝かしい時”に変えようと言い民衆を勇気づけたのです。どちらかというと情緒に訴えかけるような言葉が多いのが全体としての特徴です。結果イギリスを含めた連合国が勝利したことで、チャーチルの演説は今もイギリス国民の誇りとなっているのです。