ウィンストン・チャーチル首相とはどんな人?名言や名演説も紹介

軍人だったが実はあまり戦争は上手くなかった

軽騎兵第4連隊時代のチャーチル

チャーチルは士官学校を卒業し、騎兵軍人となっています。非常に好戦的な性格で自ら志願して戦地に赴いていました。しかし戦地ではあまり大きな戦果を挙げることは出来ず、無謀な行動に出て、やがて戦地から撤退させられるような人だったそうです。しかし従軍体験を副業として小説を書き、かなり利益を得ていました。

結局チャーチルは6年で軍を除隊しています。理由は騎兵だったため、馬の飼育などの経費が馬鹿にならないことと、文筆で生計を立てる目途が立ったからだといわれています。そして政治家に転身した後も、第一次世界大戦時は陸軍少佐として西部戦線に従軍しています。

第一次世界大戦従軍時のチャーチル(真ん中)

西部戦線でのチャーチルは、“部隊のシラミ”に宣戦布告し、駆除キャンペーンを実行しています。さらにブリキの風呂を作り塹壕での生活改善を図ったともいいます。兵士の生活改善に奔走したチャーチルでしたが、所属していた大隊は多くの死者を出してしまい結局指揮官を解任されています。この時もチャーチルは現場の兵士として大した活躍を出来ずに終わってしまい、帰国後は体験を活かして文筆業にいそしんでいたそうです。

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彼の名前がつけられた「チャーチル歩兵戦車」とは?

チャーチル歩兵戦車

第二次世界大戦期にチャーチル歩兵戦車(Mk.IV Churchill Infantry tank)という戦車が活躍しました。国威を示すために、首相であるチャーチルを冠した名前をつけたのです。第二次世界大戦時は地味な活躍だったといいますが、防御力が強いのが特徴だったといいます。

チャーチルは第一次世界大戦の時に、海軍大臣・軍需大臣に就いていました。1915年に海軍から提案された“陸上軍艦”を具体化させ、キャタピラー式装甲車を開発しました。フランスでの“カンブレーの戦い”では400機近く投入し、活躍しました。そのためチャーチルは“戦車の父”とも呼ばれています。

全てに誇大妄想気味だったチャーチルの性格

貴族の父から叩き込まれた騎士道を重視したらしい…

チャーチルの人柄をまとめると、「誇大妄想気味で考え方は古いが、冗談好きな性格でどこか憎めない人」です。チャーチルは“古い考え方”の人物でした。例えばチャーチルは戦争を、“騎士の決闘の延長”のような価値観を持っていたといいます。そのため“輝かしい栄光を残して滅びよ”という考え方のために、命を惜しまず戦う事に美を感じていたとすらいいます。

また“自分は選ばれた人物だ”と思っていたそうで、自分は全ての運命を決定づける人物だと信じていたといいます。先祖の初代マールバラ公に憧れていて、自分の偉大さを追い求めていたそうです。

ヘルメットを被るチャーチル

そういった面もありますが、基本的に冗談好きで気さくな人だったそうです。そして戦時中は危険であるにもかかわらず、自ら町を歩いて住民一人一人に声をかけて励ましたといいます。時折町の人に葉巻の火を付けてもらったりしていたそうです。

チャーチルの3つの政治思想

政治家になった頃のチャーチル

チャーチルの政治的思想の特徴を、3つ紹介します。

1.帝国主義を理想としていた

1895年当時の帝国勢力図(ピンクがイギリス)

チャーチルは帝国主義を理想とし、ヴィクトリア朝の帝国像を思い描いて“イギリス人の支配民族としての責任感を強くすれば、搾取ではなく、被支配民族に慈悲を与えるものとなっていく”という価値観でした。

チャーチルはインド人やインド民族を劣等視し、“イギリスに支配されることが必要不可欠”と考えていました。「インド人に選挙制度を与えるか否か」と質問されたときに、チャーチルは「彼らはあまりにも無知なので誰に投票したらいいかわかるはずもない」と差別的な発言をしています。

イギリス連邦の加盟国図

しかしチャーチルが首相だった時代は、有色人種国家の日本が白人国家のロシアに戦争で勝ったことにより帝国主義の価値観がアジア・アフリカ各国で疑問視し始めていた時代でもありました。そしてインドなどで独立運動が活発になっていきます。

第二次世界大戦後は、イギリスの植民地国家は独立していきました。そのためイギリスは、戦勝国となるという栄光は手に入りましたが“大英帝国”ではなくなり、その代わり“イギリス連邦”という政府間機関となり、“自由で平等なもの”として現在もあり続けています。

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2.徹底した反共主義であった

チャーチルは共産主義に拒否反応を示していた

チャーチルは徹底した反共産主義思想を持っていました。あまりに演説で目の敵にするために、“赤の恐怖にとり憑かれている”といわれる程でした。なぜそこまで共産主義を憎悪するのかは、チャーチルと同じ自由党で社会改良政策に取り組んだロイド・ジョージが後年、

「彼は共産主義を心より憎悪していた。彼の公爵家の血が、ロシア大公を皆殺しに強い怒りを感じさせたのだ。ロシア革命を憎悪する余り、帝政が没落した原因を冷静に分析することができなかった」

と語っています。想像にはなりますが幼少期から貴族として育ったチャーチルにとって、共産主義は本能的に帝政が廃れる象徴に感じてしまっていたのかもしれません。

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