徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】

徳川家康にまつわる逸話

逸話1「文武両道。けれど芸術は…」

文武両道だったという家康だが、実は踊りは得意ではなかったとか。

文武両道の人物だったという記録が数多く残る家康ですが、実は彼にはある弱点がありました。実は彼は芸術分野にはあまり精通しておらず、とりわけ日本舞踊などの公家文化についてはからっきしだったとされているのです。

また、当時の流行だった茶の湯などにもあまり興味を示しておらず、どちらかと言えば『論語』などの実学や、時計などの舶来品に興味を示していたとされる記録が多く残っています。

ただし一方で、能や猿楽への精通を示すエピソードが残っているなど、一概に家康が芸術を軽視していたとは言い切れません。むしろ「文武芸術問わずに多趣味だった」という記載も一部に残っているため、あくまで家康が苦手としていたのは”日本舞踊”だったという事にとどめておいた方がよさそうです。

逸話2「徳川氏を呪う刀が存在していた…?」

村正一門の打った刀は「徳川を呪う妖刀」という評判を得ることになったが、実際は…?

名刀マニアとしての顔も持っていた家康ですが、実は家康はある妖刀伝説の中心人物ともなっていました。それが「妖刀村正伝説」です。

「家康の親族が、刀工である村正一門の刀剣によって相次いで傷を負った」というのが妖刀伝説の概要であり、現在でもゲームや漫画などで”妖刀”と言えば村正となるほど知名度の高い説ではあります。

とはいえ、実際には家康は村正一門の刀剣を高く評価しており、むしろ村正一門を厚遇しています。そのため、「村正の打った刀が徳川の縁者を傷つけた」という妖刀伝説は、徳川の縁者の近くにたまたま村正一門の刀が多く存在していた、というだけだと言えそうです。

徳川家康の生涯年表

1543年 – 0歳「三河・岡崎城にて誕生」

岡崎城は現在も、家康生誕の地として人気の観光スポットである。

松平氏の嫡男として誕生

この年の12月26日、午前4時に後の徳川家康となる松平竹千代はこの世に生を受けました。父は若き松平の当主である松平広忠、母は水野家当主の娘である於大の方という女性です。

当時の松平家は弱くこそありませんでしたが、今川や武田と言った一線級の軍勢には見劣りをしてしまうレベルの勢力であり、当時の松平家の領地であった三河も、実質的には今川家によって影から支配されている状況でした。

父母との別れ

家康の長い不遇期は、母との生き別れから始まりました。

母の生家である水野家の当主が、家康にとっての叔父に当たる水野信元になると、水野氏は織田家と同盟を締結。しかし松平家は織田家と敵対する今川家と同盟していたため、家康の父母である広忠と於大の方は離縁することになってしまったのです。

しかも1549年には父が24歳の若さで死去するという悲劇も経験し、家康はここから長い長い不遇の期間を歩み続けていくことになります。

1547~1560年 – 4歳~17歳「人質生活」

駿河の今川と尾張の織田。その板挟みとして辛い幼少期を過ごした家康。

今川と織田の対立の狭間

この頃になると竹千代は、今川氏への人質として駿府に送られることになりました。しかしその護送中、彼は立ち寄った城で裏切りに遭い、彼は今川氏ではなく織田氏への人質として尾張に送られる事になってしまったのです。

そしてその2年後、今川氏は人質交換で竹千代を取り戻すことになるのですが、その頃の岡崎城はほとんど今川に支配された状態。竹千代は居城であったはずの岡崎城の本丸にすら立ち入ることを許されないという、不条理な不遇を経験することになりました。

元服と初陣

不条理と不遇の中ではありましたが、竹千代は今川義元の庇護の下ですくすくと成長。1555年には元服を果たし、次郎三郎元信という名前を名乗ることになりました。正室である築山殿と結婚をしたのもこの時期です。

そして1588年頃、散発的に発生していた三河の反乱を鎮圧に出陣。これが彼の初陣であり、この時の戦功で義元からは旧領地の一部と腰刀を賜っていることがわかっています。

また、初陣の頃には再度名を改め、今川義元から一字を貰った”元康”と名乗っていたことが記録されています。

1560年 – 17歳「桶狭間の戦い」

織田信長が天下に名を上げるきっかけとなった戦いだが、家康もそこに参戦していた。

織田信長が天下に名乗りを上げたことで有名な戦ですが、元康はこの戦いには今川軍として参戦。先鋒と食料補給部隊を任され、織田の軍勢の包囲を抜けて任務を果たす活躍を見せました。

しかし義元が討たれたことを知ると、元康は独自の動きを展開。今川氏から独立を果たすべく、岡崎城で軍事行動をとり始めたことが記録されています。

1562年 – 19歳「清州同盟を締結」

後に清州会議の部隊にもなった清州城は、家康が天下に一歩を踏み出す場所でもあった。

織田信長と同盟

今川氏からの独立を半ばほどまで果たした元康は、母の生家であり織田の同盟相手でもあった水野氏の仲介を得て織田信長と同盟を締結。清州城で結ばれたこの同盟は、信長にとっても元康にとっても重要な意味のある者でした。

しかしこの同盟によって今川氏とは断交する形となり、西三河を中心に彼は今川氏や武田氏との抗争に追われることになってしまいます。

名前を「家康」に改める

1563年、彼は今川義元から賜った”元”の字を返上し、自身の名を「家康」と改めました。

何故”家”の字を選んだのかは定かではありませんが、一説では母の再婚相手である久松俊勝が以前に名乗っていた「長家」という名前から取ったとされています。

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