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徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】

徳川家康とは、主に戦国時代に活躍した代表的な武将の一人です。江戸幕府を開いた初代将軍であるという功績はもちろん、彼自身の性格を示すエピソードなども数多く残っている、日本有数の有名な偉人だと言える人物でしょう。

徳川家康の肖像画

現代にも通じる、いくつかの動乱こそあれ250年にわたる戦のない時代を築いたことは、同じ将軍という立場にあった源頼朝や足利尊氏にも不可能だった功績であり、ただそれだけでも徳川家康が偉人として尊敬に値する人物だという証明にもなっています。

とはいえ、家康については「江戸幕府を開いた人」という情報で止まっている方も多いのではないでしょうか?ということでこの記事では、そんな家康について基礎となる情報を解説していければと思います。

徳川家康とはどんな人物か

名前徳川家康
主要な別名松平竹千代、松平元康、
東照大権現
誕生日1543年1月31日
没日1616年6月1日
生地三河国、岡崎城
没地駿河国、駿府城
配偶者築山殿(正室)、
朝日姫(駿河御前)(継室)、
その他側室多数
埋葬場所福地山修禅寺境内の指月ヶ丘
墓所日光東照宮

徳川家康の生涯をハイライト

江戸幕府の初代将軍として以外にも、家康は多くのエピソードを残している。

まずは簡単に家康の生涯を振り返ります。

  • 1543年:三河国、岡崎城の松平家に誕生。
  • 1562年:清州城にて、織田信長と同盟を結ぶ。
  • 1567年:家名を「徳川」に改姓。
  • 1573年:三方ヶ原の戦い。武田信玄に惨敗。
  • 1584年:小牧・長久手の戦い。羽柴勢と交戦し痛み分け。
  • 1586年:大阪城にて豊臣秀吉と謁見。豊臣政権への臣従。
  • 1600年:関ケ原の戦い。東軍の総大将として勝利。
  • 1603年:征夷大将軍への任命を受ける。
  • 1605年:征夷大将軍を辞職。以後は大御所として政治を行う。
  • 1616年:死去

数々の不遇を乗り越えて天下統一をした人物

江戸幕府を開いて天下を統一したことが、徳川家康最大の功績。

徳川家康と言えば、やはり江戸幕府を開いて平和な時代の礎を築いたことが最大の功績だと言えるでしょう。しかし生涯ハイライトからわかる通り、家康が時代の覇者として活動していたのは晩年にあたる16年ほどでしかありません。

生まれた家自体はさほど強い家ではなく、青年期は織田信長の同盟相手として各地を転戦。信長の死後はそれなりの立場こそ得てはいますが、最終的には秀吉に臣従する形で10年余りを過ごすことになるなど、家康の生涯はむしろ不遇な期間が長い印象を受けます。

しかし結果として、最終的に天下を掴んだのは徳川家康であり、彼の力で250年以上の平和な時代が築かれたことには疑う余地がありません。晩年までの不遇を経ても彼が諦めなかったからこそ、江戸幕府という日本全土に対する長い統治体制が確立されたのです。

慎重で現実的な性格の持ち主

家康と言えばその慎重な性格で有名。

徳川家康という人物について語る際には、まず彼の慎重で現実的な性格が間違いなく話題に上がります。苛烈で果断に富んだ織田信長や、人好きがして立ち回り上手だった豊臣秀吉とはまた違い、家康はどこまでも忍耐強く現実的な人物でした。

忍耐強さについては、『生涯ハイライト』のトピックを見ていただいてもわかる通り、武田への敗北や羽柴への臣従をしてもなお諦めずに機を窺った部分から。現実的な性質は秀吉と戦をしてから2年という短い期間しか置かずに従っていることからも読み取れます。

他にも「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」という有名な句で紹介されているように、家康の性質を示すエピソードは数多く残っています。とても紹介しきれる量ではないため、皆様も是非ご自身で調査してみていただければ幸いです。

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家康の妻や子供など家族構成は?

多くの作品で描かれる家康だが、その正室が作中に描かれることは考えてみると少ないような…?

家康の正室は、記録によると”築山殿”という女性になっています。ただし彼女は家康が将軍になるよりはるか以前、1579年に内通などの咎で処断されているため、歴史の表舞台にはほとんど名前があがっていません。

継室である朝日姫(駿河御前)も、家康が将軍になる以前に病没しているため、家康の妻と呼ばれる存在はどちらもあまり歴史上に名を表していないと言えます。

ただしその一方で側室の数は非常に多く、家康の子とされる人物は非常に多く存在しています。江戸幕府の2代将軍である徳川秀忠を筆頭に、結城秀康などがその代表的な人物であり、彼らのほとんどは江戸幕府の統治の安定化のため、各々で尽力した記録が残っています。

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家康の家紋の意味とは?

徳川氏の家紋として有名な葵の御紋だが、そのルーツは意外なところに存在していた?

徳川家の家紋は一般に「葵の御紋」と呼ばれ、現在でも徳川政権の象徴として広く知られるマークとなっています。しかしこの葵紋は、実は家康の家系が代々受け継いできた家紋ではありません。

実はこの葵紋は、京都の賀茂神社の御神紋でした。その神社を信仰し、有力な氏子だった家康がいつのまにかその御神紋を使用し始めたというのが「徳川家=葵の御紋」というイメージの始まりだったのです。

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家康にゆかりのある城は?

現在の皇居の場所に存在した江戸城は、現在も名城として名高い。

家康ゆかりの城と言えば、まず真っ先に名前が挙がるのは江戸城でしょう。現在では皇居となっているその場所は、家康による大規模な拡張工事によって日本最大最強の城となり、江戸時代の長い繁栄の象徴のように扱われるようになりました。

また、他にも家康にゆかりのある城は数多く存在し、家康生誕の地として、長く徳川の縁者によって収められてきた岡崎城。歴代城主がいずれも幕府の重役に出世した「出世城」の浜松城。そして家康が晩年に大御所として住まいにした駿府城など、多くの城に家康にまつわる逸話が残っています。

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諸説ある家康の死因

家康の死因として有名なのは”天ぷら”。だが、研究を進めていくと…?

家康の死因と言えば、やはり有名なのは「天ぷらによる食中毒」という説でしょう。失礼ながらユーモラスさすら感じてしまう死因であり、だからこそ有名になった部分はありますが、実際のところこの死因には様々な無理があります。そのため、学問的にはこの説はほぼ否定されているのが現状です。

現代において、家康の死因は「胃がん」という説が通説となっています。実際の記録においても、家康が胃がんに罹っていたとみられる記載は数多く見られるため、これに関してはかなり確度の高い学説であると言えそうです。

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家康の墓はどこにあるのか?

その功績を讃えてか、死後は神格化までされた家康。

「家康の墓」と言われて最も有名なのは、やはり日光東照宮でしょう。家康は遺言によって一周忌の後に東照宮へ分霊され、そこで「権現」あるいは「東照神君」として神格化されたと言います。

ただし東照宮には家康の遺骨などは存在しておらず、彼の遺体自体は駿河の久能山にて葬られたとする説が、現在では多数派となっています。

家康の遺体が葬られたとする場所もまた、現在は久能山東照宮として家康に由来する地らしい様々なイベントが開かれる神社となっています。興味のある方は日光の東照宮だけでなく、久能山の東照宮にも参拝してみてはいかがでしょうか?

徳川家康の功績

功績1「江戸幕府による統治体制の樹立」

江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜。写真が残る時代にまで続く平和を築いたことが、家康最大の功績。

徳川家康の功績と言えば、間違いなく江戸幕府を開いたことがあげられます。15代にわたる統治体制は、小規模な動乱こそ数多くあれど、現代日本に通じる様々な文化を育む土壌である平和な時代だったと言えるでしょう。

また、存命中に既に幕府の統治体制の雛型を作り上げていた手腕も見事。自身の人脈や優秀な家臣たちのアドバイスを積極的に取り入れて作り上げられたその統治体制は、正に家康を象徴する功績だと言えるでしょう。

功績2「時代の勝ち馬に乗り続けた幸運」

今川、織田、豊臣と、時代の覇者の近くには常に家康の姿があったともいえる。

家康は戦績だけを見れば、特別華やかな武将というわけではありません。むしろ三方ヶ原の戦いに代表されるように、歴史上の有名な戦いでは敗戦や痛み分けの方が多い印象を受けるほどです。

しかしその一方で、織田信長と共に戦った姉川や長篠。秀吉と共に戦った小田原征伐など、時代の覇者たちのターニングポイントには、それなりの頻度で家康の名前が登場しています。

実力や個人の人望だけではどうしようもない時代だったことを、信長と秀吉の末路は伝えています。それらを経たうえで最終的な勝利を掴んだ家康は、ある意味で勝ち馬に乗り続けた幸運の持ち主だったとも言えるかもしれません。

功績3「そもそも江戸を栄えさせたことがすごい…?」

室町時代後期に江戸を拠点とした武将・太田道灌。一流の武将だった彼でも、江戸を家康ほど栄えさせることはできなかった。

中学や高校での歴史の勉強を思い浮かべると、”江戸”という地名が表舞台に登場するのは、家康が幕府を開いたあたりからということに気付けるかと思います。そしてそれこそが、家康の功績に繋がっているのです。

家康が入植するまでの江戸は、港町や交通の要所として一定の重要性は存在していましたが、それでも山や入江の多さから発展自体はさほどしておらず、「要所ではあるが中心地ではない」という扱いの場所でした。

しかしその江戸に入植した家康は、山の切り崩しや入江の埋め立てを行ってその地の大規模開発を開始。これによって江戸は一大都市となり、250年の繁栄の中心地となったのです。

徳川家康の名言

人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず

家康の我慢強く慎重な性質をよく表した名言です。

「急がば回れ」と似た意味合いの名言ではありますが、実際にそのような生き方で成功を掴んだ家康の言葉として聞くと、説得力が違うように思えます。

不自由を常と思えば不足なし

地位や名誉を得てもなお、食糧が不足しがちな夏には麦飯を食べていたという家康。そんな彼らしい質素倹約を重んじる名言です。

物が溢れがちな現代社会であるからこそ、今一度考える必要のある名言なのではないでしょうか?

水よく船を浮かべ 水よく船を覆す

水を家臣に、船を主君に例えた名言です。「主君を生かすのも殺すのも、結局は家臣次第である」ということを言い、「だからこそ主君は、家臣に対して誠実に接しなければならない」と説いています。

家康に大きな影響を与えた織田信長。その人物像や無念の最期を知っている家康だからこそ言える言葉であるように、筆者には映りました。

徳川家康の名言10選!名言が生まれた意図や背景も解説
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