徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】

徳川家康の名言

人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず

家康の我慢強く慎重な性質をよく表した名言です。

「急がば回れ」と似た意味合いの名言ではありますが、実際にそのような生き方で成功を掴んだ家康の言葉として聞くと、説得力が違うように思えます。

不自由を常と思えば不足なし

地位や名誉を得てもなお、食糧が不足しがちな夏には麦飯を食べていたという家康。そんな彼らしい質素倹約を重んじる名言です。

物が溢れがちな現代社会であるからこそ、今一度考える必要のある名言なのではないでしょうか?

水よく船を浮かべ 水よく船を覆す

水を家臣に、船を主君に例えた名言です。「主君を生かすのも殺すのも、結局は家臣次第である」ということを言い、「だからこそ主君は、家臣に対して誠実に接しなければならない」と説いています。

家康に大きな影響を与えた織田信長。その人物像や無念の最期を知っている家康だからこそ言える言葉であるように、筆者には映りました。

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徳川家康と関わりの深い人物

戦国時代の中でもとりわけ激動の時代を生き抜いた家康は、その時代の覇者だった人物と多くのエピソードで関係を持っています。

このトピックでは、そんな家康の関係者たちを数人ピックアップして紹介していきましょう。

今川義元

公家かぶれのイメージで語られやすい今川義元だが、実は当時においては指折りの優秀な武将だった。

「海道一の弓取り」の異名を持つ、駿河近郊を支配していた戦国武将です。幼少の家康は今川家と織田家を人質として行き来させられる、辛い生活を強いられていました。

しかし家康は、義元の下で元服や初陣を果たしている他、義元の側近である太原雪斎に軍学の基礎を教えられたともされており、その存在は徳川家康にとって欠かせない存在だったと言えるでしょう。

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武田信玄

主に家康と敵対した武田信玄だが、家康は彼に強い敬意を持ち続けていたと言われる。

「甲斐の虎」の異名で知られる戦国武将です。若年の頃の家康と幾度か戦場で相まみえており、いずれも家康を敗走に追い込んでいます。

敵対関係でこそありましたが、家康は信玄を大きくリスペクトしていた節があり、家康の領国経営の手腕は信玄と似たものが多く見られるほか、長篠の戦い以降には武田家の家臣だった武将たちを数多く家臣団に組み入れています。

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織田信長

説明不要の戦国の覇王・織田信長。彼と家康は同盟相手として、多くの戦場を共に戦った。

説明不要の戦国の英雄です。今川家の滅亡後、家康とは同盟を結んでおり、多くの戦で共に戦う間柄となっていました。

関係性自体を記録から読み取ることはできませんが、「家康の接待で信長が感動した」等のエピソードが残っていることから、その関係性はかなり良好なものだったことが推測できます。

豊臣秀吉

家康を高く買っていた秀吉だが、実は家康が秀吉をどう思っていたのかはよくわかっていない。

こちらも説明不要の戦国の英雄です。天下人として家康を臣従させ、政権の運営にあたる五大老の筆頭格として厚遇しました。

秀吉の方は家康のことを厚く信頼していたようですが、家康が秀吉に向けていた感情は実のところ記録からは分からず、家康の”狸親父”のイメージの裏付けともなっています。

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石田三成

家康と関ヶ原で激突したのが、秀吉の忠臣だった石田三成。

豊臣政権下における五奉行の一人です。秀吉の死後に家康と反目し、関ケ原の戦いで衝突。敗れて斬首されるという末路を辿りました。

家康に対しては何かと警戒をしていたようで、親家康派の大名からは疎まれていた事を示す記録が数多く残っています。好意的な記録が多く残る家康にしては珍しい、根っからの反家康派だった人物だと言えるでしょう。

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