徳川家康とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言、性格も紹介】

家康の家紋の意味とは?

徳川氏の家紋として有名な葵の御紋だが、そのルーツは意外なところに存在していた?

徳川家の家紋は一般に「葵の御紋」と呼ばれ、現在でも徳川政権の象徴として広く知られるマークとなっています。しかしこの葵紋は、実は家康の家系が代々受け継いできた家紋ではありません。

実はこの葵紋は、京都の賀茂神社の御神紋でした。その神社を信仰し、有力な氏子だった家康がいつのまにかその御神紋を使用し始めたというのが「徳川家=葵の御紋」というイメージの始まりだったのです。

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家康にゆかりのある城は?

現在の皇居の場所に存在した江戸城は、現在も名城として名高い。

家康ゆかりの城と言えば、まず真っ先に名前が挙がるのは江戸城でしょう。現在では皇居となっているその場所は、家康による大規模な拡張工事によって日本最大最強の城となり、江戸時代の長い繁栄の象徴のように扱われるようになりました。

また、他にも家康にゆかりのある城は数多く存在し、家康生誕の地として、長く徳川の縁者によって収められてきた岡崎城。歴代城主がいずれも幕府の重役に出世した「出世城」の浜松城。そして家康が晩年に大御所として住まいにした駿府城など、多くの城に家康にまつわる逸話が残っています。

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諸説ある家康の死因

家康の死因として有名なのは”天ぷら”。だが、研究を進めていくと…?

家康の死因と言えば、やはり有名なのは「天ぷらによる食中毒」という説でしょう。失礼ながらユーモラスさすら感じてしまう死因であり、だからこそ有名になった部分はありますが、実際のところこの死因には様々な無理があります。そのため、学問的にはこの説はほぼ否定されているのが現状です。

現代において、家康の死因は「胃がん」という説が通説となっています。実際の記録においても、家康が胃がんに罹っていたとみられる記載は数多く見られるため、これに関してはかなり確度の高い学説であると言えそうです。

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家康の墓はどこにあるのか?

その功績を讃えてか、死後は神格化までされた家康。

「家康の墓」と言われて最も有名なのは、やはり日光東照宮でしょう。家康は遺言によって一周忌の後に東照宮へ分霊され、そこで「権現」あるいは「東照神君」として神格化されたと言います。

ただし東照宮には家康の遺骨などは存在しておらず、彼の遺体自体は駿河の久能山にて葬られたとする説が、現在では多数派となっています。

家康の遺体が葬られたとする場所もまた、現在は久能山東照宮として家康に由来する地らしい様々なイベントが開かれる神社となっています。興味のある方は日光の東照宮だけでなく、久能山の東照宮にも参拝してみてはいかがでしょうか?

徳川家康の功績

功績1「江戸幕府による統治体制の樹立」

江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜。写真が残る時代にまで続く平和を築いたことが、家康最大の功績。

徳川家康の功績と言えば、間違いなく江戸幕府を開いたことがあげられます。15代にわたる統治体制は、小規模な動乱こそ数多くあれど、現代日本に通じる様々な文化を育む土壌である平和な時代だったと言えるでしょう。

また、存命中に既に幕府の統治体制の雛型を作り上げていた手腕も見事。自身の人脈や優秀な家臣たちのアドバイスを積極的に取り入れて作り上げられたその統治体制は、正に家康を象徴する功績だと言えるでしょう。

功績2「時代の勝ち馬に乗り続けた幸運」

今川、織田、豊臣と、時代の覇者の近くには常に家康の姿があったともいえる。

家康は戦績だけを見れば、特別華やかな武将というわけではありません。むしろ三方ヶ原の戦いに代表されるように、歴史上の有名な戦いでは敗戦や痛み分けの方が多い印象を受けるほどです。

しかしその一方で、織田信長と共に戦った姉川や長篠。秀吉と共に戦った小田原征伐など、時代の覇者たちのターニングポイントには、それなりの頻度で家康の名前が登場しています。

実力や個人の人望だけではどうしようもない時代だったことを、信長と秀吉の末路は伝えています。それらを経たうえで最終的な勝利を掴んだ家康は、ある意味で勝ち馬に乗り続けた幸運の持ち主だったとも言えるかもしれません。

功績3「そもそも江戸を栄えさせたことがすごい…?」

室町時代後期に江戸を拠点とした武将・太田道灌。一流の武将だった彼でも、江戸を家康ほど栄えさせることはできなかった。

中学や高校での歴史の勉強を思い浮かべると、”江戸”という地名が表舞台に登場するのは、家康が幕府を開いたあたりからということに気付けるかと思います。そしてそれこそが、家康の功績に繋がっているのです。

家康が入植するまでの江戸は、港町や交通の要所として一定の重要性は存在していましたが、それでも山や入江の多さから発展自体はさほどしておらず、「要所ではあるが中心地ではない」という扱いの場所でした。

しかしその江戸に入植した家康は、山の切り崩しや入江の埋め立てを行ってその地の大規模開発を開始。これによって江戸は一大都市となり、250年の繁栄の中心地となったのです。

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