徳川家茂はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や逸話も紹介】

「徳川家茂ってどんな人だったの?」
「どんな功績を残したのか知りたい!」
「徳川家茂の死因がわからない…」

徳川家茂は江戸幕府の14代将軍を務めた人物です。8年にわたり将軍職を務め幕府を支えました。

徳川家茂像 川村清雄作

幕末の徳川将軍と言えば徳川慶喜が有名ですが、慶喜の在位期間は意外にも1年足らず。在位期間で言えば、家茂こそが幕末の将軍と呼ばれるに相応しいとも言えます。

しかし実際のところ、ほかの徳川将軍と比べ名前が知られていなかったり、徳川家茂という名前は知っていてもどんな人物だったのか?何をした人なのか?は詳しく知らなかったりしますよね。

そこで今回は、江戸幕府の14代将軍徳川家茂の生涯について解説します。性格や功績はもちろん、死因や逸話なども年表にまとめつつ紹介するのでぜひ参考にして下さい。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

徳川家茂とはどんな人物か

名前徳川家茂
誕生日弘化3年(1846年)閏5月24日
没日慶応2年(1866年)7月20日
生地江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)
没地大阪城
配偶者和宮親子内親王
埋葬場所増上寺(東京都港区)
身長156.6cm
血液型A型

徳川家茂の生涯をハイライト

徳川家家紋である徳川葵
  • 弘化3年(1846年)0歳 家茂誕生
  • 嘉永2年(1849年)4歳 紀州藩主となる
  • 嘉永4年(1851年)6歳 元服し慶福と名乗る
  • 安政5年(1858年)13歳 14代将軍となる
  • 文久2年(1862年)17歳 和宮と婚姻
  • 文久3年(1863年)18歳 朝廷の要請で上洛
  • 元治元年(1864年)19歳 第一次長州征伐
  • 慶応2年(1866年)21歳 第2次長州征伐の途上で死去

13歳で徳川家14代将軍となる

将軍継嗣問題の相関図

家茂は安政5年(1858年)、13歳で14代将軍に就任します。その背景には当時の複雑な時代背景が関係していました。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航し、日本は開国を迫られます。混乱の最中に12代将軍家慶が亡くなり、新たに13代将軍に就任したのは家定でした。

ところが家定は病弱で政務を満足に行えず、後継を残す見込みもありません。島津斉彬・徳川斉昭などの有力大名は有事に対応出来る将軍として「一橋慶喜」の擁立を図ります。彼らを一橋派と呼びました。

一方で井伊直弼などの譜代大名は「血統優先」として、徳川慶福(後の家茂)を擁立。彼らを南紀派と呼びます。幕臣達は時期将軍の座を巡り、対立したのです。

やがて安政5年(1858年)に家定は重篤となり、南紀派の井伊直弼を大老に据えます。更に家定は6月20日に慶福を将軍に命じました。南紀派は一橋派に勝利したのです。

慶福は10月25日に将軍となり「家茂」と名を改めました。家茂が将軍になった時、幕府は様々な対立を抱えていたと言えるのです。

孝明天皇の妹・和宮と婚姻する

和宮の肖像

家茂は孝明天皇の妹・和子と文久2年(1862年)2月に婚姻します。これは幕府が推進していた公武合体政策の一環です。当時は幕府の影響力が低下すると共に朝廷の権威が大きくなっていました。

幕府は朝廷の権威を利用して幕府の権威の復活を目指します。そして朝廷も幕府の武力で外国人を追い払おうとしたのです。公(朝廷)武(幕府)合体は両者の利害が一致した結果であり、家茂と和宮は政略結婚で夫婦になりました。

ただ政略結婚だった家茂と和宮はとても仲が良かったと言われます。婚姻生活はたった4年。家茂は3回にわたり京都に赴いており、2人が共に過ごした時間はとても短いものでした。

その最中でも家茂は和宮に贈り物を欠かさず、少しでも時間があれば一緒に過ごしています。家茂は生涯側室を置かず、和宮を心から愛していたのです。和宮もまた家茂の事を深く愛するようになりました。

死因は脚気?甘党が寿命を縮めた

家茂の頭蓋骨と復元像

家茂は慶応2年(1866年)7月20日に21歳の若さで薨去。幕府が2度目の長州征伐を行っている時でした。家茂の死因は脚気ですが、脚気になった原因は「虫歯」です。遺骨調査によると家茂は31本の歯のうち30本が虫歯でした。

家茂は歯のエナメル質が極端に薄い体質にもかかわらず大の甘党で、金平糖やカステラなどが好物でした。この虫歯が家茂の体力を奪い、脚気になったと推測されています。

更に運が悪かったのは誤診です。家茂が体調を崩した時、漢方医達は脚気と診断したものの、西洋医達はリウマチとして診断。この意見の違いが処置の遅れに繋がりました。

家茂は幕府内の勢力争いで将軍に就任した人物です。更に公武合体による孝明天皇と幕府との板挟みもあり、ストレスの多い生活を送っていました。この心労も脚気に繋がったかもしれません。

若くして亡くなった事から、家茂は悲劇の将軍とも呼ばれているのです。

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