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徳川家茂はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や逸話も紹介】

「徳川家茂ってどんな人だったの?」
「どんな功績を残したのか知りたい!」
「徳川家茂の死因がわからない…」

徳川家茂は江戸幕府の14代将軍を務めた人物です。8年にわたり将軍職を務め幕府を支えました。

徳川家茂像 川村清雄作

幕末の徳川将軍と言えば徳川慶喜が有名ですが、慶喜の在位期間は意外にも1年足らず。在位期間で言えば、家茂こそが幕末の将軍と呼ばれるに相応しいとも言えます。

しかし実際のところ、ほかの徳川将軍と比べ名前が知られていなかったり、徳川家茂という名前は知っていてもどんな人物だったのか?何をした人なのか?は詳しく知らなかったりしますよね。

そこで今回は、江戸幕府の14代将軍徳川家茂の生涯について解説します。性格や功績はもちろん、死因や逸話なども年表にまとめつつ紹介するのでぜひ参考にして下さい。

徳川家茂とはどんな人物か

名前徳川家茂
誕生日弘化3年(1846年)閏5月24日
没日慶応2年(1866年)7月20日
生地江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)
没地大阪城
配偶者和宮親子内親王
埋葬場所増上寺(東京都港区)
身長156.6cm
血液型A型

徳川家茂の生涯をハイライト

徳川家家紋である徳川葵
  • 弘化3年(1846年)0歳 家茂誕生
  • 嘉永2年(1849年)4歳 紀州藩主となる
  • 嘉永4年(1851年)6歳 元服し慶福と名乗る
  • 安政5年(1858年)13歳 14代将軍となる
  • 文久2年(1862年)17歳 和宮と婚姻
  • 文久3年(1863年)18歳 朝廷の要請で上洛
  • 元治元年(1864年)19歳 第一次長州征伐
  • 慶応2年(1866年)21歳 第2次長州征伐の途上で死去

13歳で徳川家14代将軍となる

将軍継嗣問題の相関図

家茂は安政5年(1858年)、13歳で14代将軍に就任します。その背景には当時の複雑な時代背景が関係していました。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航し、日本は開国を迫られます。混乱の最中に12代将軍家慶が亡くなり、新たに13代将軍に就任したのは家定でした。

ところが家定は病弱で政務を満足に行えず、後継を残す見込みもありません。島津斉彬・徳川斉昭などの有力大名は有事に対応出来る将軍として「一橋慶喜」の擁立を図ります。彼らを一橋派と呼びました。

一方で井伊直弼などの譜代大名は「血統優先」として、徳川慶福(後の家茂)を擁立。彼らを南紀派と呼びます。幕臣達は時期将軍の座を巡り、対立したのです。

やがて安政5年(1858年)に家定は重篤となり、南紀派の井伊直弼を大老に据えます。更に家定は6月20日に慶福を将軍に命じました。南紀派は一橋派に勝利したのです。

慶福は10月25日に将軍となり「家茂」と名を改めました。家茂が将軍になった時、幕府は様々な対立を抱えていたと言えるのです。

孝明天皇の妹・和宮と婚姻する

和宮の肖像

家茂は孝明天皇の妹・和子と文久2年(1862年)2月に婚姻します。これは幕府が推進していた公武合体政策の一環です。当時は幕府の影響力が低下すると共に朝廷の権威が大きくなっていました。

幕府は朝廷の権威を利用して幕府の権威の復活を目指します。そして朝廷も幕府の武力で外国人を追い払おうとしたのです。公(朝廷)武(幕府)合体は両者の利害が一致した結果であり、家茂と和宮は政略結婚で夫婦になりました。

ただ政略結婚だった家茂と和宮はとても仲が良かったと言われます。婚姻生活はたった4年。家茂は3回にわたり京都に赴いており、2人が共に過ごした時間はとても短いものでした。

その最中でも家茂は和宮に贈り物を欠かさず、少しでも時間があれば一緒に過ごしています。家茂は生涯側室を置かず、和宮を心から愛していたのです。和宮もまた家茂の事を深く愛するようになりました。

死因は脚気?甘党が寿命を縮めた

家茂の頭蓋骨と復元像

家茂は慶応2年(1866年)7月20日に21歳の若さで薨去。幕府が2度目の長州征伐を行っている時でした。家茂の死因は脚気ですが、脚気になった原因は「虫歯」です。遺骨調査によると家茂は31本の歯のうち30本が虫歯でした。

家茂は歯のエナメル質が極端に薄い体質にもかかわらず大の甘党で、金平糖やカステラなどが好物でした。この虫歯が家茂の体力を奪い、脚気になったと推測されています。

更に運が悪かったのは誤診です。家茂が体調を崩した時、漢方医達は脚気と診断したものの、西洋医達はリウマチとして診断。この意見の違いが処置の遅れに繋がりました。

家茂は幕府内の勢力争いで将軍に就任した人物です。更に公武合体による孝明天皇と幕府との板挟みもあり、ストレスの多い生活を送っていました。この心労も脚気に繋がったかもしれません。

若くして亡くなった事から、家茂は悲劇の将軍とも呼ばれているのです。

徳川家茂の功績

功績1「公武合体を推進?229年ぶりに上洛を果たす」

孝明天皇の肖像

文久3年(1863年)3月に家茂は老中などを率いて義兄・孝明天皇のいる京都に入ります。将軍としての上洛は三代将軍・家光が行った以来で、229年ぶりでした。

当時は幕府と朝廷は公武合体政策を推し進めています。「開国やむなし」と考える幕府に対し「外国人を追い払え」と主張する孝明天皇との隔たりは大きいものがありました。

当時は「天皇を敬い外国を斥ける」という尊王攘夷思想を持つ武士や公家も多く、京都は尊王攘夷派の巣窟でした。家茂が上洛する事はリスクがあったものの、家茂は将軍の責務を果たしたのです。

石清水八幡宮

家茂は3月7日に孝明天皇へ攘夷を約束しますが、孝明天皇と石清水八幡宮へ参詣する際は病気として欠席します。石清水八幡宮は徳川家の祖・源氏にゆかりのある神社で、そこで攘夷を約束をすると逃げ道がなくなるためでした。

家茂は絶妙な綱渡りをしながら、幕府の進める公武合体に対応していったのです。

功績2「勝海舟も?その聡明さから多くの幕臣に慕われた」

勝海舟

家茂が将軍に就任したのは13歳の時です。家茂は「良き将軍になる為」に文武両道に努めていきました。その姿は多くの幕臣を感動させています。

文久3年(1863年)4月に家茂は攘夷のため、幕府の軍艦「順動丸」に乗り、大阪視察を行います。順動丸の指揮官は、後に江戸城の無血開城に尽力した勝海舟でした。

家茂は勝から軍艦の機能の説明を受け、優れた理解力を発揮しました。後に家茂は勝の助言により、海軍士官の養成所である神戸海軍操練所の設置を決断します。これからの時代に軍艦が不可欠だと感じての事でした。

勝は若き家茂を信頼し、その忠誠は生涯変わる事はありませんでした。家茂が亡くなった時、勝は「徳川家、今日滅ぶ」と日記に記しています。家茂は弱体化する幕府における、希望のような存在だったのです。

功績3「フランスやイタリアの養蚕業を救った」

アラビア馬

心優しい家茂はフランスやイタリアの養蚕業を救っています。フランスやイタリアは良質な絹の生産地でしたが、1850年代に蚕の伝染病で養蚕業は壊滅的になりました。

江戸幕府はフランスと結びつきを強めていました。養蚕業の現状を知った家茂は、元治2年(1865年)に蚕の卵を皇帝・ナポレオン三世に寄贈。フランスで蚕は品種改良を重ねられ、養蚕業は復活を遂げたのです。

ナポレオン三世は謝礼としてアラビア馬26頭を幕府に寄贈しますが、家茂はそれを見る事は出来ませんでした。馬が寄贈されたのは1867年(慶応3年)の事で家茂は既に亡くなっていたからです。

このアラビア馬は「交配して幕府軍の軍馬とした役立てて欲しい」というフランスの意向がありました。しかし程なく戊辰戦争もあり幕府は消滅。馬は政局の混乱を経て多くが所在不明になりました。

アラビア馬はフランスと日本の友好の証です。家茂が存命なら日本の軍馬のあり方も大きく変わっていた事でしょう。

徳川家茂の名言

海上のことは軍艦奉行に任せよ

上洛の帰り家茂一行は順動丸に乗り、江戸に戻ります。陸路では尊王攘夷派の志士達が家茂達を襲撃すると可能性もあり、海路が選ばれました。

この帰路で海が荒れ、船酔いする人が続出する中で「やはり陸路を選んだ方が良い」と勧める側近も多くいました。しかし家茂は軍艦奉行の勝海舟を信頼し、上記の言葉を述べたのです。

信頼出来る人物にはその仕事を任せる。家茂の家臣を信頼する気持ちがよく分かります。

何とも致し呉候

現代語訳では「もう何とでもしてくれ」です。家茂は将軍であったものの、若いこともあり、政治決定権は幕府に委ねられていました。

周囲に振り回され、神輿として擁立される事への苦しみを漏らした一言だと言われます。心優しい家茂の中にも、様々な葛藤があった事が分かるのです。

徳川家茂の人物相関図

大河ドラマ篤姫の相関図

こちらは2008年に放送された篤姫の相関図です。徳川将軍家と薩摩藩との関係がわかりやすいですね。

徳川家茂にまつわる逸話

逸話1「優しい性格だった?心温まるエピソード」

家茂に書道を教えていた戸川安清

家茂はとても心優しい性格で、心温まる多くのエピソードが知られています。ある日家茂が武芸に励む家臣を見学していた時の事です。家臣の1人が家茂に激しく接触してしまいます。

家臣はひれ伏して家茂に謝罪しますが、家茂は「大事ない」と不問にしたのです。しかし家茂の顔には溢れんばかりの涙が溜まっていました。本当は痛かった家茂ですが、家臣の罰せられる事を恐れ、痛みを耐えていたのです。

また将軍に就任して間もない頃です。家茂は70歳を超える書道の達人・戸川安清から習字を教わっていました。家茂は突然、戸川の頭に水をかぶせ「あとは明日にしよう」とその場を出ていきます。

側近達が「家茂らしくない」と首を傾げる中、戸川は泣いていました。戸川は老齢で失禁していたのです。将軍の前での粗相は、当時は厳罰は免れません。家茂は戸川の粗相に気づき、不問にする為に水をかけたのです。

家茂も慶喜同様に将軍としての器を備えていた人物だと分かりますね。

逸話2「徳川家茂の家系図は?篤姫との関係性」

徳川家の家系図 家茂は家定の従兄弟にあたる

家茂の父は徳川斉順といい、12代将軍徳川家慶の異母弟にあたります。斉順の次男で、家定は家慶の長男であり、2人は従兄弟同士なのでした。だからこそ家定や南紀派の人々は将軍継嗣問題で家茂を推したのです。

ちなみに一橋派に担がれた徳川慶喜は水戸藩出身の人物。血筋をたどると初代将軍である徳川家康まで遡ります。慶喜は徳川家の人間でありつつも、実際には他人と呼んでもいいくらいの血縁関係でした。

天璋院篤姫

また徳川家茂と検索すると関連用語に「篤姫」というワードがヒットします。この女性は大河ドラマにもなったので知っている人も多いでしょう。篤姫は家定の正妻にあたる人物で、家定が没後は家茂の養母になりました。

やがて和宮と家茂が婚姻した時、篤姫と和宮は嫁姑の関係となります。当初はものすごい対立があったそうです。家茂は両者としっかり話し合う事で、2人の間を取り持っていきました。

結果的に篤姫と和宮は打ち解けるようになります。幕府が消滅した後も、2人の関係は良好なまま続きました。家茂は嫁姑問題にも心を配れる、「出来た夫」だったのです。

逸話3「実は写真が残されていた?和宮のお墓で見つかった肖像写真」

和宮のお墓で見つかった湿板写真 人の跡が見えるが翌日に画像は消失

家茂は写真嫌いの義兄・孝明天皇に合わせて写真は撮影していなかったと言われていました。ところが1958年(昭和33年)に和宮のお墓の発掘調査をした時、和宮の遺骸から一枚のガラス板が見つかります。

このガラス板には「立烏帽子を被った若い男子」が写っていました。翌日に検証しようとしたところ、日光の影響で画像は消え、ただのガラス板になっていたのです。発掘者達は落胆したと伝わっています。

写真の男子は豊頬にまだ童顔を残していたそうです。写真の人物は謎のままです。和宮の本来の婚約者である有栖川宮 熾仁親王という説もありますが、証拠もなく憶測に過ぎません。

和宮と家茂は仲睦まじく、和宮は薨去する前に「家茂の隣に葬って欲しい」と遺言を残しています。写真の人物は常識的に考えれば家茂でしょう。いつか科学が発達して家茂の写真が復元されると良いですね。

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