徳川家茂はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や逸話も紹介】

徳川家茂の功績

功績1「公武合体を推進?229年ぶりに上洛を果たす」

孝明天皇の肖像

文久3年(1863年)3月に家茂は老中などを率いて義兄・孝明天皇のいる京都に入ります。将軍としての上洛は三代将軍・家光が行った以来で、229年ぶりでした。

当時は幕府と朝廷は公武合体政策を推し進めています。「開国やむなし」と考える幕府に対し「外国人を追い払え」と主張する孝明天皇との隔たりは大きいものがありました。

当時は「天皇を敬い外国を斥ける」という尊王攘夷思想を持つ武士や公家も多く、京都は尊王攘夷派の巣窟でした。家茂が上洛する事はリスクがあったものの、家茂は将軍の責務を果たしたのです。

石清水八幡宮

家茂は3月7日に孝明天皇へ攘夷を約束しますが、孝明天皇と石清水八幡宮へ参詣する際は病気として欠席します。石清水八幡宮は徳川家の祖・源氏にゆかりのある神社で、そこで攘夷を約束をすると逃げ道がなくなるためでした。

家茂は絶妙な綱渡りをしながら、幕府の進める公武合体に対応していったのです。

功績2「勝海舟も?その聡明さから多くの幕臣に慕われた」

勝海舟

家茂が将軍に就任したのは13歳の時です。家茂は「良き将軍になる為」に文武両道に努めていきました。その姿は多くの幕臣を感動させています。

文久3年(1863年)4月に家茂は攘夷のため、幕府の軍艦「順動丸」に乗り、大阪視察を行います。順動丸の指揮官は、後に江戸城の無血開城に尽力した勝海舟でした。

家茂は勝から軍艦の機能の説明を受け、優れた理解力を発揮しました。後に家茂は勝の助言により、海軍士官の養成所である神戸海軍操練所の設置を決断します。これからの時代に軍艦が不可欠だと感じての事でした。

勝は若き家茂を信頼し、その忠誠は生涯変わる事はありませんでした。家茂が亡くなった時、勝は「徳川家、今日滅ぶ」と日記に記しています。家茂は弱体化する幕府における、希望のような存在だったのです。

功績3「フランスやイタリアの養蚕業を救った」

アラビア馬

心優しい家茂はフランスやイタリアの養蚕業を救っています。フランスやイタリアは良質な絹の生産地でしたが、1850年代に蚕の伝染病で養蚕業は壊滅的になりました。

江戸幕府はフランスと結びつきを強めていました。養蚕業の現状を知った家茂は、元治2年(1865年)に蚕の卵を皇帝・ナポレオン三世に寄贈。フランスで蚕は品種改良を重ねられ、養蚕業は復活を遂げたのです。

ナポレオン三世は謝礼としてアラビア馬26頭を幕府に寄贈しますが、家茂はそれを見る事は出来ませんでした。馬が寄贈されたのは1867年(慶応3年)の事で家茂は既に亡くなっていたからです。

このアラビア馬は「交配して幕府軍の軍馬とした役立てて欲しい」というフランスの意向がありました。しかし程なく戊辰戦争もあり幕府は消滅。馬は政局の混乱を経て多くが所在不明になりました。

アラビア馬はフランスと日本の友好の証です。家茂が存命なら日本の軍馬のあり方も大きく変わっていた事でしょう。

徳川家茂の名言

海上のことは軍艦奉行に任せよ

上洛の帰り家茂一行は順動丸に乗り、江戸に戻ります。陸路では尊王攘夷派の志士達が家茂達を襲撃すると可能性もあり、海路が選ばれました。

この帰路で海が荒れ、船酔いする人が続出する中で「やはり陸路を選んだ方が良い」と勧める側近も多くいました。しかし家茂は軍艦奉行の勝海舟を信頼し、上記の言葉を述べたのです。

信頼出来る人物にはその仕事を任せる。家茂の家臣を信頼する気持ちがよく分かります。

何とも致し呉候

現代語訳では「もう何とでもしてくれ」です。家茂は将軍であったものの、若いこともあり、政治決定権は幕府に委ねられていました。

周囲に振り回され、神輿として擁立される事への苦しみを漏らした一言だと言われます。心優しい家茂の中にも、様々な葛藤があった事が分かるのです。

徳川家茂の人物相関図

大河ドラマ篤姫の相関図

こちらは2008年に放送された篤姫の相関図です。徳川将軍家と薩摩藩との関係がわかりやすいですね。

徳川家茂にまつわる逸話

逸話1「優しい性格だった?心温まるエピソード」

家茂に書道を教えていた戸川安清

家茂はとても心優しい性格で、心温まる多くのエピソードが知られています。ある日家茂が武芸に励む家臣を見学していた時の事です。家臣の1人が家茂に激しく接触してしまいます。

家臣はひれ伏して家茂に謝罪しますが、家茂は「大事ない」と不問にしたのです。しかし家茂の顔には溢れんばかりの涙が溜まっていました。本当は痛かった家茂ですが、家臣の罰せられる事を恐れ、痛みを耐えていたのです。

また将軍に就任して間もない頃です。家茂は70歳を超える書道の達人・戸川安清から習字を教わっていました。家茂は突然、戸川の頭に水をかぶせ「あとは明日にしよう」とその場を出ていきます。

側近達が「家茂らしくない」と首を傾げる中、戸川は泣いていました。戸川は老齢で失禁していたのです。将軍の前での粗相は、当時は厳罰は免れません。家茂は戸川の粗相に気づき、不問にする為に水をかけたのです。

家茂も慶喜同様に将軍としての器を備えていた人物だと分かりますね。

逸話2「徳川家茂の家系図は?篤姫との関係性」

徳川家の家系図 家茂は家定の従兄弟にあたる

家茂の父は徳川斉順といい、12代将軍徳川家慶の異母弟にあたります。斉順の次男で、家定は家慶の長男であり、2人は従兄弟同士なのでした。だからこそ家定や南紀派の人々は将軍継嗣問題で家茂を推したのです。

ちなみに一橋派に担がれた徳川慶喜は水戸藩出身の人物。血筋をたどると初代将軍である徳川家康まで遡ります。慶喜は徳川家の人間でありつつも、実際には他人と呼んでもいいくらいの血縁関係でした。

天璋院篤姫

また徳川家茂と検索すると関連用語に「篤姫」というワードがヒットします。この女性は大河ドラマにもなったので知っている人も多いでしょう。篤姫は家定の正妻にあたる人物で、家定が没後は家茂の養母になりました。

やがて和宮と家茂が婚姻した時、篤姫と和宮は嫁姑の関係となります。当初はものすごい対立があったそうです。家茂は両者としっかり話し合う事で、2人の間を取り持っていきました。

結果的に篤姫と和宮は打ち解けるようになります。幕府が消滅した後も、2人の関係は良好なまま続きました。家茂は嫁姑問題にも心を配れる、「出来た夫」だったのです。

逸話3「実は写真が残されていた?和宮のお墓で見つかった肖像写真」

和宮のお墓で見つかった湿板写真 人の跡が見えるが翌日に画像は消失

家茂は写真嫌いの義兄・孝明天皇に合わせて写真は撮影していなかったと言われていました。ところが1958年(昭和33年)に和宮のお墓の発掘調査をした時、和宮の遺骸から一枚のガラス板が見つかります。

このガラス板には「立烏帽子を被った若い男子」が写っていました。翌日に検証しようとしたところ、日光の影響で画像は消え、ただのガラス板になっていたのです。発掘者達は落胆したと伝わっています。

写真の男子は豊頬にまだ童顔を残していたそうです。写真の人物は謎のままです。和宮の本来の婚約者である有栖川宮 熾仁親王という説もありますが、証拠もなく憶測に過ぎません。

和宮と家茂は仲睦まじく、和宮は薨去する前に「家茂の隣に葬って欲しい」と遺言を残しています。写真の人物は常識的に考えれば家茂でしょう。いつか科学が発達して家茂の写真が復元されると良いですね。

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