1862〜1863年 – 17〜18歳「229年ぶりの上洛」
229年ぶりの上洛
文久3年(1863年)3月は家茂は孝明天皇の命により、229年ぶりに上洛します。上洛を命じられた理由は「幕府に攘夷の具体的な日にちを確約させるため」でした。家茂は上洛の際に「5月10日に攘夷を行う」と約束します。
ただ「孝明天皇との石清水八幡宮へ参詣」は病気を理由に欠席。由緒正しい石清水八幡宮の神前で攘夷の約束をすると、幕府に逃げ道がなくなる為です。欠席を提案したのは、新たに将軍後見職になった一橋慶喜でした。
ただこの行動も尊王攘夷派の志士の怒りを買い、京都では「家茂暗殺予告の落首」が掲げられます。更に朝廷も家茂の江戸帰還の許可を出さず、非常に気を使う家茂の初上洛でした。
攘夷を実行した長州藩
ちなみに「5月10日の攘夷の約束」について、幕府は5月9日に各国公使に「開港場の閉鎖」と「外国人の退去」を文書で通告。同時に口頭でこれらの意志がない事も伝え、攘夷と諸外国への辻褄を合わせています。
しかし攘夷の急先鋒的存在だった長州藩は攘夷を5月10日に決行。アメリカなどの諸外国の船に次々と砲弾を打ち込むなどの行動を起こします。一連の行動は攘夷派の孝明天皇もドン引きし、長州藩は逆に朝敵(天皇の敵)となるのでした。
1864〜1865年 – 18〜19歳「2度の長州征伐」
2度目の上洛
その後も家茂は公武合体の名の下に、上洛を行います。2度目の上洛は文久4年(1864年)1月15日に行われました。家茂は孝明天皇と協議し「攘夷の策略を議論すること」「薩摩藩などの有力大名の政治参加」などが決められます。
第一次長州征伐
7月には朝敵となった長州藩に「第一次長州征伐」が計画されます。ただこの時は家茂の出番はありませんでした。幕府軍の参謀を務めた西郷隆盛が長州藩を説得し、降伏させる事に成功したからです。
しかし第一次長州征伐後も長州藩は不穏な動きを見せました。そのため幕府は2度目の長州征伐を計画します。第二次長州征伐はかなり大規模なもので、家茂自らが陣頭指揮を執る事が決まりました。
出発前に家茂は和宮に「土産は何が良いか」と訪ねています。和宮は「京都の西織物が良い」と答えました。この約束を交わして家茂は慶応元年(1865年)5月16日に家茂は江戸城を出発しました。
結論から言えば、このやり取りが2人の今生の別れとなったのです。
1865年 – 19歳「将軍職の辞任を申し出る」
3度目の上洛
閏5月22日に家茂は孝明天皇に謁見。実に3度目の上洛でした。家茂は「長州進軍の趣旨」を奏上するものの、すぐに長州征伐は実行されませんでした。幕府は長州藩が諸外国と行なった「下関戦争」の対応などに追われたからです。
兵庫開港要求事件
9月にはいつまでも開国の勅許を出さない孝明天皇にしびれを切らしたイギリス・フランス・オランダの連合艦隊が、兵庫港に現れる兵庫開港要求事件が起きています。
時の老中・阿部正外と松前崇広は列強の要求を拒む事は無理と判断。2人は天皇の許可を得ずに兵庫の開港を許可します。しかし開港を許可しない朝廷は2人の老中に「官位剥奪・改易」の処分を決めたのです。
家茂は朝廷の勝手な行動に対し「将軍職辞職・江戸に戻る姿勢」を見せて抗議します。結果的に孝明天皇は慌てて処分を撤回し、幕府人事への干渉をしない事を約束しました。
家茂は幕臣や幕府を守る為、決死の行動にも出ていたのです。
1866年 – 20歳「徳川家茂死去」
第二次長州征伐中の悲劇
慶応2年(1866年)6月7日に第二次長州征伐がようやく行われます。しかし家茂は4月に体調を崩して大阪城で倒れます。6月には食事も摂る事が出来なくなりました。そして7月20日に薨去したのです。まだ20歳の若さでした。
第二次長州征伐では軍勢は幕府軍10万5千、長州軍3500と圧倒的に幕府軍が優っていました。しかし幕府軍は長州軍に連敗します。戦いは休戦となるものの、事実上は幕府の敗北でした。
家茂の死は脚気と言われています。ただ3度目の上洛以降はずっと京都に滞在し、ストレスや過労も蓄積していたのは間違いありません。若き将軍が亡くなった時、多くの幕臣が悲しんだと言われます。
最期の贈り物
家茂の遺体は9月6日に江戸に到着します。そして家茂の遺品の中にとあるものかありました。それは家茂が土産に約束していた「西陣織の着物」です。和宮は家茂の死を悲しみ、このような歌を詠みました。
空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ
(現代語訳)せっかく美しい着物が届いても、見せるあなたがいないのに、一体何の意味があるというのでしょう
1878年 「和宮死去」
家茂を弔い続けた和宮
やがて江戸幕府が滅び、明治時代が到来します。和宮は幕末を生き延びたものの、明治10年(1877年)に32歳で脚気にて薨去しました。和宮の遺体は遺言に従い「家茂の側」に葬られます。
家茂と和宮は10年の時を経て、隣り合う事が出来たのでした。