徳川家茂はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や逸話も紹介】

徳川家茂の生涯年表

1846〜1850年 – 0〜5歳「菊千代誕生」

紀州藩邸

徳川家茂誕生

家茂は弘化3年(1846年)閏5月24日に江戸の紀州藩邸で生まれます。幼名は菊千代と言いました。父親の徳川斉順は紀州藩第11代目藩主です。また家茂が生まれる前に亡くなっており、家茂は父の顔を知りません。

4歳で紀州藩藩主となる

父である徳川斉順の没後は、斉順の弟である徳川斉彊が紀州藩第12代藩主となりました。しかし斉彊も嘉永2年(1849年)3月に亡くなります。結果的に家茂は斉彊の養子となり、たった4歳で紀州藩の第13代藩主となりました。

幼少期の家茂は風流を好み、魚や鳥を可愛がっていたそうです。幼少期から家茂は優しい性格だった事が伺えます。

1851〜1852年 – 6〜7歳「元服する」

紀州藩の実権を握った水野忠央

慶福と名乗る

家茂は嘉永4年(1851年)に元服。時の将軍・家慶から名前を賜り、慶福と名乗ります。元服の重苦しい雰囲気の中で慶福は泣いてしまうものの、鳥を見て泣き止んだそうです。

藩政は水野忠央が実権を握る

藩主になったものの、慶福はまだ6歳。政治の実権は付家老・水野忠央が握ります。忠央は姉の睦を家慶の長男家定の側室に送るなどして、藩内外で絶大な権力を持つようになりました。

1853〜1858年 – 8〜13歳「黒船来航と将軍継嗣問題」

13代将軍・徳川家定

黒船来航

嘉永6年(1853年)6月3日にペリー率いる黒船が浦賀に来航。6月22日には将軍・家慶が死去し、次期将軍には唯一存命だった家定が就任します。しかし家定は脳性麻痺の説もあるなど、将軍としての責務を果たせませんでした。

日本は嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約を締結。日本は下田と箱館を開港し、鎖国体制は終わりを告げました。この状況下、家定の病状は更に悪化。廃人同様になったともされます。

将軍継嗣問題

大老となった井伊直弼

幕府内では次期将軍を誰にするかで対立が起こりました。薩摩藩主・島津斉彬や水戸元藩主・徳川斉昭は斉昭の実子である一橋慶喜を次期将軍に推します。

彦根藩主・井伊直弼や水野忠央は血統を優先し、慶福を次期将軍に推挙。一橋派には外様大名が多く集まっている経緯もあり、慶喜が将軍になると彼らが幕政に口出しする可能性がありました。南紀派はそれを嫌がったのです。

1858〜1860年 – 13〜15歳「慶福の将軍就任」

徳川家茂の肖像

家定が慶福を次期将軍に推挙

安政5年(1858年)6月25日、死期が迫っていた家定は慶福を次期将軍にする事を諸大名に伝えます。結果的に慶福は将軍継嗣問題に勝利。慶福は10月25日に第14代将軍となり、家茂に名を改めます。

ただ年齢も若く、実権は大老の井伊直弼が握りました。直弼は一橋派の台頭を防ぐため「将軍後見職」という役職を新設し、徳川慶頼という人物にその役を命じます。家茂は将軍としての権力は制限されていたのです。

ただ家茂は立派な将軍になる為、風流を好む生活をやめ、文武両道に努めるようになりました。その姿勢を見て多くの幕臣が感動したのです。

1860〜1862年 – 15〜17歳「公武合体と和宮との婚姻」

和宮の婚約者だった有栖川宮熾仁親王

公武合体

文久2年(1862年)2月に家茂は孝明天皇の妹・和宮と婚姻します。この背景には朝廷の権威を利用したい幕府の意向がありました。また朝廷は「婚姻を条件に幕府に攘夷を実行させるため」に和宮の婚姻を認めます。

当時、和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、婚約も解消となります。表向きは華やかな公武合体ですが、実態は政略結婚に他ならなかったのです。

1 2 3 4 5

コメントを残す