庵野秀明とはどんな人?生涯・年表まとめ【エヴァにまつわる逸話や名言も紹介】

庵野秀明にまつわる逸話

逸話1「勉強と風呂が大嫌いだった」

庵野秀明は勉強が大嫌いだった

幼い頃から漫画やアニメに夢中であり、絵を描いてばかりいた庵野秀明は、学校での勉強は無駄であると考え、高校時代からはほとんど勉強をしなくなりました。そして、大学受験時も勉強せずに過ごし、最終的には実技のみで試験を受けられた大阪芸術大学に入学します。

また、庵野秀明は大の風呂嫌いでした。若い頃の彼は、無駄な時間を浪費しないために、毎日入らなくても死ぬわけではない風呂は入らないと主張しました。驚くことに、1年中風呂に入らなかったこともあったそうです。

しかし、2002年に安野モヨコと結婚したことで、荒れていた日常生活は大きく改善しました。恐ろしいほどに風呂を嫌がっていた庵野秀明は、現在では1日おきに入浴するようになっているのです。

逸話2「宮崎駿監督と対立していた」

庵野秀明の師匠的な存在である宮崎駿

師弟関係のように見える庵野秀明と宮崎駿は、かつて対立していたことがありました。その際には、庵野秀明は宮崎駿の作品をつまらない映画と酷評しており、それに対して宮崎駿は「新世紀エヴァンゲリオン」をいらないアニメであると辛辣な評価をしていたのです。

また、庵野秀明は「風の谷のナウシカ」の外伝を制作したいと宮崎駿に頼んだことがあります。しかし、宮崎駿は庵野秀明が持ち込んだ企画を戦争ごっこと呼び、くだらない最低のものになるという理由から一蹴したのです。

その後、庵野秀明が監督した「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」と宮崎駿が監督した「もののけ姫」が同じ1997年に公開されました。そして、それぞれのキャッチコピーが「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」と「生きろ。」になっており、対照的なメッセージのように見えることが話題となったのです。

逸話3「エヴァ制作後、鬱状態に陥っていた」

「新世紀エヴァンゲリオン」制作後に鬱状態となっていた

厳しいスケジュールの中で進められた「新世紀エヴァンゲリオン」の制作後、庵野秀明は鬱状態に陥りました。そのような精神状態について、本人は「壊れた」と表現しており、自殺を考えたこともあったそうです。

その際に、彼は宮崎駿と電話で話しており、半年ほど休むことを勧められました。この言葉に救われた彼は、半年間の休暇をとった後に見事な復活を果たし、現場に戻ることができたのです。

また、2012年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」が公開された後も、彼は鬱状態を患いました。これに対して、彼は魂を削って再びエヴァを作っていたことへの当然の報いであると話しています。

庵野秀明の年表

1960年 – 0歳「山口県宇部市で生まれる」

庵野秀明の故郷である山口県宇部市にある常盤公園

幼い頃より漫画やアニメ、特撮に夢中になる

1960年、山口県宇部市で生まれた庵野秀明は、幼い頃から漫画やアニメ、特撮作品に夢中になっていました。その他にも、戦記物や大規模建造物などにも興味を示していたようです。

この頃、アニメ界では「鉄腕アトム」をきっかけとした第1次アニメブームが巻き起こっており、「サイボーグ009」や「ゲゲゲの鬼太郎」といった、21世紀においても根強い人気を誇る名作が誕生していました。そして、彼はそのような時代に幼少期を過ごしたのです。

また、当時から絵を描くのが大好きであり、特に大規模建造物のような背景のイラストを描くのを好んでいました。そして、憑りつかれたように絵を描き続けた結果、後に仕事へ繋がるほどの画力を手に入れたのです。

中学高校は美術部に所属

高校の美術部では部長を務めていた

中学に進むと、庵野秀明は美術部に入部しました。しかし、基礎デッサンには興味を示さず、油絵や漫画を描くことに時間を費やします。この頃、彼は色んな漫画を読み漁っていましたが、特に少女漫画を好んでいました。

その後、県内でも進学校として有名であった山口県立宇部高校に入学します。しかし、勉強はほとんどせずに、美術部での活動や天体観測、麻雀、漫画、アニメ、特撮作品など様々な遊びに夢中になっていたのです。その結果、受験勉強をしないまま高校を卒業し、浪人生活が始まりました。

その後、彼は「機動戦士ガンダム」や「宇宙戦艦ヤマト」などのアニメに没頭する日々を過ごします。その頃に、彼は学科試験無しで実技のみによって受験ができる大阪芸術大学を見つけました。そして、彼は見事に大阪芸術大学の試験に合格し、大学へ進学することができたのです。

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