庵野秀明とはどんな人?生涯・年表まとめ【エヴァにまつわる逸話や名言も紹介】

1980年 – 20歳「大阪芸術大学芸術学部映像計画学科に進学」

庵野秀明が入学した大阪芸術大学

SF研究会に入り、自主制作アニメに取り組む

1年間の浪人時代を経て、庵野秀明は大阪芸術大学芸術学部映像計画学科に入学し、SF研究会に入りました。そして、その頃に知り合った友人の中には、後に庵野秀明と共に株式会社ガイナックスを立ち上げることになる山賀博之や赤井孝美らがいたのです。

その後、庵野秀明は自主映画の制作グループ「DAICON FILM」に参加し、自主制作アニメに熱中しました。その際に、彼らが制作したアニメ映像は、プロを驚かせるほど完成度が高かったようです。将来的に、この「DAICON FILM」は株式会社ガイナックスの母体となっていきます。

また、当時の庵野秀明はアマチュアでありながら、高い技術を買われてアニメーターのアルバイトをしていました。そして、「超時空要塞マクロス」の制作に参加した際には動画や原画を担当しており、この頃からプロのアニメーターによる高い評価を受けていたのです。

大学を中退し、上京

庵野秀明は20代の頃に宮崎駿と出会った

アニメ界の面白さや制作現場の空気が持つ独特の魅力に夢中になっていた庵野秀明は、大学にはほとんど姿を現さなくなっており、学費も払っていませんでした。その結果、彼は大学から追い出されてしまいます。

その頃、宮崎駿監督のアニメ映画「風の谷のナウシカ」が作画スタッフを募集しており、彼は上京を決意。その結果、見事に原画担当として採用されたのです。その後、段々と東京でアニメに携わる仕事を貰えるようになっていきました。

しかし、この頃の彼は原画・動画一筋のアニメーターとして活動して行くことに限界を感じていました。そのため、彼は宮崎駿監督の下で学び、メインの仕事を監督・演出に切り替えていったのです。

1984年 – 24歳「株式会社ガイナックスの設立に参加」

会社の設立に伴い、多忙な毎日が始まる

初監督作品「トップをねらえ!」の制作

1984年、アニメ映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の制作を目的として、株式会社ガイナックスが設立されます。そして、庵野秀明はこの会社の創立時からスタッフとして参加していました。

その後、1988年にSFロボットアニメ「トップをねらえ!」で、彼は初めて本格的な商業作品の監督を務めます。この作品は、OVA(オリジナルビデオアニメーション)として制作されたため、地上波のテレビ放送はありませんでした。また、彼はこの作品を制作するにあたり、監督だけでなく脚本や絵コンテも担当しています。

しかし、「トップをねらえ!」は好評であったにもかかわらず、制作費が増えすぎたために会社の負債が拡大していきました。その結果、庵野秀明は休む間もなくアニメ制作をしなければならなくなってしまったのです。

「ふしぎの海のナディア」の総監督を務める

テレビアニメの厳しい放送スケジュールは庵野秀明を追い詰めた

1990年、庵野秀明は自身初のテレビアニメシリーズ「ふしぎの海のナディア」の総監督を引き受けました。そして、彼は毎週放送されることになるテレビアニメを制作することの厳しさを思い知ることになったのです。

この作品がもたらした厳しい制作スケジュールは、アニメの品質に対して大きな負担を強いることになりました。その結果、作品全体の作画が低品質になることを避けるために、一部の作画を外注する事になったのです。

そして、苦労の末に1年間のアニメ放送が終了した後、庵野秀明は何の作業も手に付かない状態に陥ってしまいます。その後、しばらくは次のアニメ制作に移ることができず、ようやく立ち上がっても新たな企画は空回り、ひたすら焦燥感に駆られる日々を過ごすことになりました。

1995年 – 35歳「新世紀エヴァンゲリオン放送開始」

放送後の休暇で庵野秀明が訪れた竜飛岬

「新世紀エヴァンゲリオン」が日本SF大賞を受賞

1995年、庵野秀明によるオリジナル原作の企画が通り、「新世紀エヴァンゲリオン」を監督することが決まりました。この作品は、社会現象となるほどの大ヒットを記録し、放送後には日本SF大賞受賞しました。

しかし、テレビアニメの放送後、庵野秀明は鬱病を患ってしまい、自殺を考えるほどの精神状態に陥ってしまったのです。その結果、およそ半年間も現場に戻ることができませんでした。その間、彼は青森県の竜飛岬や北海道の宗谷岬、礼文島などをサンダルで1人旅するなどして時を過ごしていました。

その後、ようやく現場に復帰することができた庵野秀明は、1997年に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生」と「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の総監督を務めたのです。

実写映画界へ進出後、漫画家の安野モヨコと結婚

ビデオカメラにハマり、実写映画の世界へ

この頃、庵野秀明はデジタルカメラによる実写映像の撮影に興味を惹かれていました。その結果、彼は実写映画の世界へ進出することになります。

1998年、小説家の村上龍が原作を書く「ラブ&ポップ」を映画化。そして、「式日」や「キューティーハニー」の実写映画を監督し、実写映像による作品や現場の魅力に心を奪われていきました。

その後、2002年に漫画家の安野モヨコと結婚し、庵野秀明の生活は大きく変わることになります。彼の周囲にいた人々曰く、庵野秀明は結婚によって心が丸くなり、だらしなかった体も見栄えが良くなったそうです。

2006年 – 46歳「株式会社カラーを設立」

庵野秀明は株式会社カラーの代表取締役となった
出典:EIZO株式会社

全4部作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの制作

2006年、庵野秀明は株式会社カラーを設立し、創立時から参加していた株式会社ガイナックスを退社しました。そして、2007年より「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの第1作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の公開が始まったのです。

しかし、この作品の制作スケジュールも非常に厳しく、2作目である「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」の制作では、最後の4か月は家に帰ることもできませんでした。その後、第3作の制作に取り組み始めますが、この作品においてもギリギリの制作状況の中で完成を迎えることになりました。

そして、2012年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を公開した後、庵野秀明は再び鬱状態に陥ってしまいます。彼にとって、「エヴァンゲリオン」というアニメは彼自身ともいえる存在であり、その制作には魂を削るほどの大きな負担がかかっているのです。

1 2 3 4 5 6

コメントを残す