新渡戸稲造とは何した人?功績や名言、お札に選ばれた理由も解説

「新渡戸稲造ってどんな人だったの?」
「武士道には何が書かれているの?」
「お札の肖像に選ばれた理由がわからない…」

新渡戸稲造は、明治から昭和初期に活躍した教育者・思想家・農学者です。農学者として台湾の発展に努めた他、国際連盟事務次長にも就任。日本人の道徳を世界に発信する為に「武士道」を表し、世界的に高い評価を受けています。様々な功績から新渡戸は五千円札の肖像に選ばれた事もあるのです。

1933年頃の新渡戸稲造

国際的に有名な新渡戸ですが、人物像や生涯については知らない人も多いでしょう。新渡戸は日本が軍事色を強めて国際的に孤立する中、最期まで平和に尽力した人物です。日米の架け橋になる為、自分の生き様を貫いた新渡戸の事を是非とも知ってほしいと思います。

新渡戸の生涯や功績を知れば、どうして彼が五千円札の肖像に選ばれたのかが分かるでしょう。今回は新渡戸稲造の生涯や功績について解説していきます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

新渡戸稲造とはどんな人物か

名前新渡戸稲造
誕生日1862年9月1日
没日1933年10月15日
生地陸奥国岩手郡盛岡城下
(現・岩手県盛岡市)
没地カナダのビクトリア
配偶者メアリー・エルキントン
埋葬場所多磨霊園

新渡戸稲造の生涯をハイライト

新渡戸稲造の銅像
  • 1862年 0歳 新渡戸稲造誕生
  • 1877年 16歳 札幌農学校に入学
  • 1882年 21歳 農商務省御用掛となり、2年後に渡米
  • 1891年 30歳 メアリーと結婚 札幌農学校教授となる
  • 1900年 39歳 武士道をニューヨークで出版
  • 1901年 40歳 台湾総督府・殖産局長心得となる
  • 1920年 59歳 国際連盟事務次長となる
  • 1928年 67歳 東京女子経済専門学校の初代校長となる
  • 1933年 72歳 日本が国際連盟脱退を表明 ビクトリアで客死

5000円札の肖像に選ばれた人物

新渡戸稲造の肖像が描かれた5000円札

新渡戸稲造は、1983〜2003年の期間に5000円札の肖像に選ばれました。肖像に選ばれる基準として「日本が誇れる人物・政治色がない事・精密な肖像画や写真が現存する事」などが挙げられます。

大蔵省は清少納言や紫式部、与謝野晶子や樋口一葉などの女性を候補に挙げていました。しかし清少納言や紫式部は写真がありません。当時は与謝野晶子の孫・与謝野馨が国会議員を務めていた事もマイナスとなりました。

新渡戸は女子教育に力を入れていました。新渡戸は「女性の社会進出に貢献した人物」として肖像に選ばれたのです。ちなみに樋口一葉は「短命」という理由で候補から外れますが、2004年以降の紙幣の肖像に選ばれました。

5000円札には太平洋を中心にした地球が描かれています。これは新渡戸の「我、太平洋の架け橋とならん」という言葉を表現したものでした。新渡戸の5000円札には、新渡戸の強い思いが表現されているのです。

「武士道」を執筆し、日本人の道徳を世界に伝える

Bushido: The Soul of Japan の表紙

新渡戸は1899年にニューヨークで「武士道(Bushido The Soul of Japan)」という書籍を刊行。ヨーロッパやロシアなどの多くの国で翻訳され、ベストセラーになったのです。

当時、欧米列強の多くが「キリスト教」の国でした。新渡戸は知人のベルギー人から「日本人は宗教教育がないのに、どうやって道徳心を教わるのか」と質問されます。キリスト教の人達は聖書を読んで道徳を学ぶからです。

西南戦争での武士の様子を描いた絵

新渡戸は武士道こそが「日本人に受け継がれてきた価値観であり、日本人の道徳を形成するもの」と考えました。新渡戸は武士が重んじる価値観として義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義を挙げています。

中でも大切なのは義(正しい行動をとる事)と勇敢(正しい事を実行するのに必要な豪胆)であり、「義と勇」は互いを支え合う武士道における日本柱なのです。

新渡戸が武士道を刊行した時、世界は日本人の道徳を賞賛。日本人が近代国家へと歩みを続ける理由に納得したのでした。また武士道の刊行により、日本という存在は世界的に注目されるようになったのです。

新渡戸稲造の子孫は?息子の名前は遠益(トーマス)

発明王・トーマス エジソン

新渡戸稲造の直系の子孫はいませんが、新渡戸家は現在も続いています。新渡戸は1891年にアメリカ人のメアリーと結婚し、翌年に遠益(とおます)という長男が生まれました。名前の由来は新渡戸の友人である発明王・エジソンです。

しかし遠益は生後1週間ほどで亡くなります。新渡戸夫婦の悲しみは大きく、20年後に執筆した「修養」の中で新渡戸は「子を失った悲しみは口に出すことも苦痛だった」と述べています。

新渡戸夫妻は姉・喜佐の息子である孝夫、姉・峯の孫である琴子を養子にします。孝夫と琴子は結婚し、彰敏と武子という2人の子をもうけました。ただ彰敏に子はおらず、武子は加藤家に嫁いだ為、新渡戸稲造の家はそこで絶えています。

新渡戸稲造の姉・喜佐の血筋である新渡戸家は現在でも続いています。「新渡戸稲造 子孫」と検索するとヒットする「アクア新渡戸」というタレントがいます。この方は喜佐の曾孫にあたります。

ビクトリアで客死?平和に尽力したその最期

カナダ・ビクトリアにある市庁舎

新渡戸は1933年に出血性膵臓炎となり72歳でこの世を去りました。新渡戸が武士道を刊行してから30年後、日本の関東軍は満州事変を引き起こすなど、徐々に軍部色を強めていきます。

新渡戸は徹底した反戦主義者であり、日本の現状を憂いていました。新渡戸はとある取材で「わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である」と発言。軍部を含めたマスメディアから激しい非難を浴びたのです。

新渡戸は、1933年8月にカナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に参加。その前から新渡戸は関係の冷え切ったアメリカとの関係修復に努める為、アメリカに渡米するなど、平和に尽力していました。

太平洋問題調査会会議の終了後、新渡戸は西岸の都市・ビクトリアで倒れて入院します。原因は出血性膵臓炎でした。10月15日に手術が行われるものの、状態は急変。そのまま新渡戸は亡くなったのです。

新渡戸は日本とアメリカの架け橋になる為、最期まで活動を続けたのでした。

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