新渡戸稲造とは何した人?功績や名言、お札に選ばれた理由も解説

新渡戸稲造の年表

1862〜1867年 – 0〜5歳「新渡戸稲造誕生」

新渡戸稲造生誕の地

新渡戸稲造誕生

新渡戸稲造は陸奥国の盛岡城下で盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれます。ちなみに幼少期の稲造の名前は稲之助です。

新渡戸は姉が5人と兄が2人の大家族であり、末っ子でした。幼少期の新渡戸は元気いっぱいでやんちゃな性格だったそうです。

新渡戸家は英才の集まりだった

新渡戸稲造の祖父・新渡戸傳の銅像

新渡戸家は代々武士の家系で、ルーツは鎌倉時代まで遡ることが出来ます。新渡戸の祖父・傳(つとう)は盛岡藩の領地・稲生川(現・青森県十和田市)の掘削事業を成功させた人物です。

更に新渡戸の父・十次郎は掘削事業の補佐をしつつ産業開発を行っています。この時の開発事業は新渡戸の兄・七郎にも引き継がれました。結果的にこの開発事業は十和田市の礎になっています。

稲造もまた農学者として功績を残しますが、これは新渡戸家に代々受け継がれた才能だったと言えますね。

1867〜1871年 – 5〜9歳「父の死と上京」

新渡戸稲造の父・新渡戸十次郎

父の死

幼少期の新渡戸家には西洋で作られたものがたくさんあり、新渡戸は西洋の憧れを胸に抱いたとされます。新渡戸は藩校・作人館で学問を学び、更にかかりつけ医から英語を学び、頭角を現していきました。

明治維新が迫る中、父・十次郎は藩の財政再建の為、盛岡藩で算出される絹をフランスに売る事を考えます。しかし十次郎は讒言を受け蟄居。罪を許されるものの失意のうちに1868年に死去します。鳥羽伏見の戦いの10日程前の事でした。

正しいと思えば讒言される恐れがあっても行動する。十次郎の行動は紛れもない「武士道」でした。大黒柱不在となった新渡戸家ですが、祖父・傳が材木業で家計を助けます。結果的に新渡戸家は没落せずに明治維新を迎えました。

上京し太田家の養子へ

新渡戸が9歳の時、東京にいる叔父・太田時敏から手紙が届きます。それは「東京で勉強させてはどうか」というものでした。盛岡で学べる事には限りがあります。新渡戸は新しい学問を求めて東京へ旅立ちます。

上京後の新渡戸は太田家の養子・太田稲造と名乗りました。※ただこの記事ではその後も「新渡戸」と表記させていただきます。

1871〜1877年 – 9〜15歳「農学者の道を志す」

1880年頃の札幌農学校校舎

東京英語学校に進学

13歳の時に新渡戸は東大の前身・東京英語学校に入学。この頃から新渡戸は農学者になる事を志します。新渡戸がかつて盛岡にいた頃、天皇になったばかりの明治天皇が巡幸に来た事がありました。

明治天皇は幼い新渡戸に「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」と言葉をかけられた事があったのです。そんな言葉を思い出しながら、新渡戸は農学者を志しました。

札幌農学校に進学

1877年9月に新渡戸は札幌農学校の二期生として入学。「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士が校長を務めていましたが、彼は既にアメリカに帰国しています。

この頃の新渡戸はアクチーブ(活動家)と呼ばれる程の熱血漢。学費滞納の紙が張り出された時には紙を破り捨てたり、教授と論争になって殴り合いをするなど、イメージとそぐわない行動をとっています。

1877〜1881年 – 15〜19歳「キリスト教徒になる」

札幌農学校時代の新渡戸稲造

洗礼を受ける

札幌農学校では倫理学の授業があり、聖書を講じています。学生はほぼ全員がキリスト教に入信し、稲造も例外ではありません。新渡戸のクリスチャンネームは「パウロ」でした。

新渡戸はキリスト教に深い感銘を受けます。学校で殴り合いの喧嘩があった時は仲裁に入り、友人同士で議論が始まった時も「聖書には真理が書かれている」と聖書を読みふけります。

アクチーブと呼ばれていた新渡戸はいつしかモンク(修道士)と呼ばれるようになりました。このあだ名は同期である内村鑑三がつけています。

札幌農学校卒業

衣服哲学を現したトーマス・カーライル

在学中、新渡戸は視力が悪化して眼病を発病。それが原因で鬱になります。更に母親の死も相まって学業が出来ない程になりました。そんな新渡戸は「衣服哲学」という書籍に出会います。

この本では「人間的制度や道徳は身に着ける衣装であり、一時的なものにすぎない。そして人間は誰でも本来裸である」と述べたものです。

新渡戸は「人間の本来のあり方を問う衣類哲学」に感銘を受け鬱病を克服します。やがて新渡戸は1881年に札幌農学校を卒業しました。

1882〜1884年 – 20〜22歳「アメリカ留学を果たす」

谷崎潤一郎と新渡戸稲造

北海道庁に採用される

1882年に新渡戸は北海道庁に採用され、イナゴの異常発生の対策などを講じています。その他には開拓使御用掛や英語教師など、農学や英語の知識を活かした仕事に就きました。

やがて東大の前身である帝国大学にも進学します。新渡戸の有名な「我太平洋の架け橋とならん」という言葉は、この時の面接で述べたものです。しかし大学の研究レベルの低さに失望し、程なく退学しています

アメリカ留学を果たす

新渡戸は1884年にアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学します。当時の日本では専門書は手に入らず、大学機関の研究も遅れていました。それなら「留学して最先端の勉強をしよう」と行動するのが、新渡戸のすごいところです。

この頃から新渡戸はキリスト教の宗派の一つ「クエーカー教」の会員になりました。証言として「平和、男女・民族の平等、人が誠実であり続ける事」などがあり、後の世界平和に尽力する行動理念にもなっています。

余談ですが、後に協調外交を掲げた幣原喜重郎もこのクエーカー教の信者だったとも言われています。

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