新渡戸稲造とは何した人?功績や名言、お札に選ばれた理由も解説

新渡戸稲造の功績

功績1「台湾農業の発展に尽力する」

台湾総督府庁舎

新渡戸は1901年に台湾総統府の技師として台湾農業の発展に尽力しました。日本は日清戦争(1894〜1895年)に勝利して台湾を領有しています。民政長官の後藤新年は台湾の発展の為に各分野のスペシャリストを台湾に召集しています。

当時の新渡戸は札幌農学校を卒業し、農業の第一人者でした。新渡戸は半年かけて台湾を巡り「台湾の農業の発展には製糖業が不可欠」と確信。「糖業改良意見書」をまとめ、サトウキビの生産・製造・市場にわたる建議を行いました。

新渡戸は「住民の利益を尊重する」という心情をもとに、台湾の製糖業の基盤を構築。更に台湾で製糖した原料糖を、日本の工場で精製する体制が築かれます。1902年に5万5千tだった製糖生産量は1925年には8倍の48万tになりました。

新渡戸の尽力により、製糖業は台湾の経済基盤を支えました。新渡戸の功績は台湾でも語り継がれています。台湾糖業博物館には「台湾砂糖の父」として新渡戸の銅像が建てられているのです。

功績2「国際連盟の事務次長となる」

国際連盟本部が置かれたパレ・デ・ナシオン(現在はジュネーヴ事務局となっている)

新渡戸は、1920年に「史上初の国際平和機構」として発足した国際連盟の事務次長の1人に選ばれました。この背景には新渡戸の著した「武士道」が国際的に高い評価を受けていた事が挙げられます。

新渡戸は国際連盟事務次長として「オーランド諸島問題」の解決に尽力しました。これはスウェーデンとフィンランドがオーランド諸島の領有権を主張した問題です。その他、知的協力委員会を立ち上げて運営にもあたっています。

新渡戸の紳士的な態度や高潔な人格は、国際的に大きな尊敬を集めました。当時の欧米列強は「東洋人は白人よりも格下の民族である」という価値観を持っていました。新渡戸の人格はその価値観を覆すものだったのです。

新渡戸は国際連盟事務次長として平和に尽力しただけではありません。「人種や民族に区別はない」という事実を、欧米列強の国々に証明させたのです。

功績3「東京女子大学の初代学長になり、女子教育の推進にあたる」

現在の東京女子大学校舎

新渡戸は教育者として女子教育の推進にあたりました。かねてから女子教育の大切さを訴えていた背景には、新渡戸がクリスチャンだった事も挙げられます。

新渡戸は1900年にパリで安井てつという女子留学生と出会います。安井は「差別のない大学教育を日本の女性に与えたい」と考えていました。この時に新渡戸は安井と意気投合したのです。

ちなみに津田梅子による女子英学塾が立ち上げられたのも1900年。広岡浅子が日本女子大学校を立ち上げたのが1901年です。この頃は各地で女子教育に対する「大きな流れ」が生まれていました。

1918年に新渡戸と安井は東京女子大学を創立し、新渡戸は初代学長に就任します。東京女子大学では「キリスト教主義のもとで最高のリベラル・アーツ教育を行う」という理念が掲げられました。

更に新渡戸は1928年には東京女子経済専門学校の初代校長にも就任しています。新渡戸は女子教育の先駆者としての評価も高く、5000円札の肖像に選ばれた理由の一つにもなっているのです。

新渡戸稲造の名言

新渡戸稲造は太平洋の架け橋になる事を目指した

願わくば、我太平洋の架け橋とならん

新渡戸の最も有名な名言かもしれません。この名言は帝国大学(後の東大)の英文科に進学する際に、面接で答えた内容がもとになっています。

新渡戸は日本の思想を外国へ伝えつつ、外国の思想を海外へ伝える。その架け橋になりたかったのですね。この理念は新渡戸のパワーの源となり、世界中を飛び回る事になるのです。

人間は、それぞれ考え方や、ものの見方が違うのが当然である。

その違いを認め合い、受け入れられる広い心を持つことが大切である。

これが『国際的な感性』である。

新渡戸はアメリカやドイツ留学を経て様々な文化に触れました。直にその違いに触れた新渡戸だからこそ生まれた名言と言えるでしょう。

信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。

礼儀作法をいくら学んでも、相手に対する信実と誠実がそこになければそれは礼儀ではありません。信実と誠実が伴ってこそ、初めて礼儀が生まれます。

新渡戸は国際的な感性と日本の礼儀を併せ持った人物だという事が、この名言で分かりますね。

新渡戸稲造にまつわる逸話

逸話1「当時では珍しい国際結婚」

新渡戸稲造とメアリー

新渡戸は1891年にメアリー・エルキントンというアメリカ人女性と結婚。当時としては非常に珍しい国際結婚でした。2人の出会いは1884年で、新渡戸が私費留学でアメリカに住んでいた時です。

新渡戸はある日、アメリカ基地で「日本について」の講義を行います。講義を聴講していたメアリーが「話が聞きたい」と新渡戸に告白。2人の運命の出会いでした。

新渡戸は1887年にドイツに留学。2人は文通を続け、いつしか結婚の約束を交わしました。ただ当時としては珍しい国際結婚であり、双方の両親は猛反対。特にメアリーの父の反対はものすごく、地元の新聞に掲載される程でした。

メアリーの両親は新渡戸夫婦が日本に向かう直前に結婚を認めています。メアリーは日本では萬里子と名乗り、新渡戸を支え続けました。新渡戸の功績の陰には萬里子夫人の支えがあった事は間違いありません。

逸話2「皆から尊敬される性格だった」

ドイツのビール ピルスナー

新渡戸は武士道の刊行や国際連盟事務次長などの肩書きから堅苦しい性格に思われがちです。新渡戸は実は酒豪で、ドイツ留学時代はビールを片手に議論を交わす事が好きでした。

日本人留学生から「飲み過ぎ」と注意されると「ドイツではビールを飲まない人は病気を持っていると思われる」と言い返しています。肩書きとは裏腹に豪快な人物だった事は間違いないですね。

そんな新渡戸は誠実でユーモアのある周囲から人気があり、それを示すエピソードが残っています。国際連盟事務次長時代に職員約550名が集まり、人気投票をした事がありました。結果は圧倒的大差で新渡戸が一位だったのです。

新渡戸に対する尊敬や人気の高さは、世界共通だったと言えますね。

逸話3「実はフリーメイソンだった?」

フリーメイソン のシンボルマーク

新渡戸はフリーメイソンだったと言われています。フリーメイソンとは世界最古かつ最大の友愛組織であり、秘密結社として世界を影で牛耳っているという都市伝説があります。フリーメイソンだった日本の歴史上の人物として後藤新平や鳩山一郎、そして坂本龍馬などがいます。

実は紙幣の肖像に選ばれる人物は、フリーメイソンと繋がりがあるとされます。新たな10000円札の肖像になる渋沢栄一はフリーメイソンと深い繋がりがあったラストチャイルド家と深い繋がりがありました。

新渡戸がフリーメイソンという確証はありません。ただ新渡戸が信仰していたキリスト教・クエーカー派はフリーメイソンと深い繋がりがあります。新渡戸は留学経験も長く、フリーメイソンに加入していても不思議ではありません。

新渡戸の5000円札には「水面に映った逆さ富士」が描かれています。しかしこの逆さ富士は「モーゼが十戒をうけたとされるシナイ山」だという噂があるのです。手元に旧5000円札がある人はぜひご覧になってください。信じる信じないはあなた次第です。

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