新渡戸稲造とは何した人?功績や名言、お札に選ばれた理由も解説

1885〜1894年 – 23〜32歳「遠友夜学校を設立」

遠友夜学校跡地

メアリーと共に日本へ

1891年に新渡戸は妻・メアリー(萬里子)と日本に帰国します。この2年前には長兄と次兄が亡くなった為、新渡戸は家を継ぐ為、新渡戸姓に戻りました。

帰国後の新渡戸は札幌農学校で教授として忙しい日々を送ります。やがて遠益が生まれるものの、1週間で夭折する悲劇にも見舞われました。

遠友夜学校を設立

翌年にメアリーの実家・エルキントン家で育てていた孤児が亡くなり、萬里子に1000ドルもの遺産が渡った事がありました。新渡戸夫妻は相談し「遠友夜学校」を設立したのです。

遠友夜学校は「就学出来ない児童の為に作られたもの」。札幌農学校の生徒が教師となり、授業料も無料。1944年に閉校するまで6000人もの生徒が学んでいます。学校の設立には亡き遠益への思いがあった事は間違いありません。

1895〜1903年 – 33〜41歳「武士道と台湾総督府の技師への就任」

台湾製糖博物館にある新渡戸稲造の像

武士道の執筆

多忙な日々を過ごした新渡戸夫妻ですが、1897年に夫婦ともに体調を崩してしまいます。2人は療養の為にカリフォルニアに渡りました。新渡戸はこの頃に代表著作・武士道を書き上げ、1900年に初版がアメリカで刊行されました。

武士道で解説される武士道は「新渡戸の視点から見た武士道」です。実際の武士の規範や思想と多少のズレはあります。ただ「日本を知らなかった人々」に与えた影響は大きく、武士道はベストセラーとなりました。

台湾総督府の技師となる

療養を経て新渡戸は後藤新平から「台湾総督府で働いて欲しい」と要請を受けます。功績は 功績1「台湾農業の発展に尽力する」で述べた通りです。新渡戸は1901年に札幌農学校を正式に退職し、台湾総督府の技師となりました。

1903年には京都帝国大学法科大学教授も兼任。台湾と京都を往復し、植民政策のあり方を生徒達に伝えていきます。この頃から新渡戸は教育者としても頭角を現していくのです。

1904〜1919年 – 42〜57歳「様々な学校の学校長を務める」

旧一高本館

第一高等学校の校長になる

1906年に新渡戸は第一高等学校の校長となりました。第一高等学校は東京大学教育学部と千葉大学医学部の前身となった学校です。1950年に廃止されるまで、あらゆる分野のエリートを輩出しました。

新渡戸が校長に選ばれたのは「日本のリーダー育成にふさわしい人物」と評価された為です。新渡戸は衣類哲学を生徒に薦めるなど、一高に西洋の風を吹き込んでいきました。

その後も新渡戸は精力的に教育者として活動。この時期に関わった事業や学校は以下の通りです。

  • 1909年 実業之日本編集顧問
  • 1916年 東京植民貿易語学校校長
  • 1917年 拓殖大学学監
  • 1918年 東京女子大学初代学長

津田梅子との関係性

余談ですが、新渡戸は津田塾大学の前身・女子英学塾の顧問も務めています。この女子英学塾の創設者は新たな5000円札の肖像になる津田梅子ですね。

また1929年に津田が亡くなり、学校の新たな方針を定める時には新渡戸家で集会が開かれました。お札だけでなく、女子教育という観点からも2人は繋がりがあったのです。

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1920〜1926年 – 58〜64歳「国際連盟の事務次長になる」

国際連盟委員会

国際連盟の事務次長になる

第一次世界大戦(1914年〜1918年)を経て、世界の平和を維持する為の機関である国際連盟が発足します。それは1920年の事でした。当時の日本は常任理事国であり、事務次長に新渡戸稲造が選ばれています。

新渡戸が選ばれた背景には、新渡戸が武士道を刊行し、世界的に高い評価を受けていた事が挙げられます。新渡戸ら日本の職員は「国際連盟規約」の中に、人種差別の撤廃を明記するべきと主張しました。

この「人種的差別撤廃提案」は過半数の支持を得ています。しかしアメリカのウィルソン大統領は「全員一致で無ければ可決されない」として、この提案を否定。やはりアメリカの意向に逆らう事は出来なかったのです。

とは言え国際会議の場で「人種差別の否定」を明確に主張したのは日本が初めてです。新渡戸の意思に感銘を受けた人々は多かった事でしょう。様々な国際問題の解決に尽力し、新渡戸は1926年に事務次長を退任しています。

1927〜1931年 – 65〜69歳「満州事変が勃発する」

柳条湖事件を発端に満州事変が勃発した

精力的な活動を続ける

国際連盟事務次長を退任後も新渡戸は精力的に活動します。1928年には東京女子経済専門学校の初代校長に就任しています。翌年には太平洋問題調査会の理事長や拓殖大学名誉教授に就任。新渡戸の情熱は衰える事はありませんでした。

満州事変勃発

1931年9月18日、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。それを中国軍の仕業にする事で満州地域を占領します。満州事変が勃発したのです。

当初、線路の爆破は「中国軍の仕業」と信じられており、世論も満州の占領を支持します。しかし新渡戸は満州事変は関東軍の策略と見抜いていました。

新渡戸の思いとは裏腹に日本は軍国主義へと歩みを進めて行きました。

1931〜1932年 – 69〜70歳「第一次上海事変勃発」

札幌農学校時代の仲間と共に

満州事変を支持する

関東軍の行動を見抜いていた新渡戸ですが、最終的には満州事変を認めます。それは1932年1月8日に昭和天皇が「皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ」と関東軍の行動を認める勅を出した事がきっかけです。

当時の日本は天皇に深い畏敬を持っていました。新渡戸も例外ではなく、昭和天皇の勅を受けて満州事変について一転して支持する発言をしています。

第一次上海事変勃発

しかし1月28日には日本と中国の武力衝突である「第一次上海事変」が勃発。この直後の2月4日に新渡戸は取材の中で以下の発言を行い、激しい非難を浴びたのです。

私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。

実は第一次上海事変は「関東軍が中国人を買収し、日本の僧侶を殺傷させた事」で起きた武力衝突でした。日本人の多くはその事を知らず、僧侶を殺された事で中国に対する態度を硬化させていました。

新渡戸は真実を述べたものの、それを知らない人々からから大きな非難を浴びる事になったのです。

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