岡倉天心(おかくら てんしん)は、明治から大正にかけて活躍した美術思想家です。明治維新・文明開化を経て急速な近代化を迎えた当時の日本では、ヨーロッパ美術の吸収に力を入れてばかりで日本美術が軽視されがちでした。天心はそのような状況をどうにかしたいと、「新しい日本美術」の創造に着手します。
また天心は「東京美術学校」の設立に携わり、校長として伝統的な日本美術ともヨーロッパ美術とも違う新しい美術教育を目指しました。東京美術学校の校長職を退いた後は「日本美術院」を設立し、横山大観・菱田春草らの師として近代日本美術の道を歩みます。

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1904年からは、アメリカ・ボストン美術館の東洋美術部に務め、アジアの美術品の収集や紹介に力を尽くしました。代表作「茶の本」が出版されたのはこの頃です。茶道を通して東洋思想を論じたこの本は1906年にアメリカで出版され、さまざまな言語に翻訳されて読み継がれています。
岡倉天心について、中学・高校の歴史の教科書で詳しく学ぶことはあまりありません。フェノロサとともに一瞬名前が登場するくらいではないでしょうか。けれども天心の日本美術への功績は大きく、現代の私たちが日本の美術品を鑑賞できるのは彼のおかげといっても過言ではありません。
この記事では、日本美術が大好きな筆者が岡倉天心の生涯や功績、代表作「茶の本」などをご紹介します。
岡倉天心とはどんな人物か
名前 | 岡倉天心(本名:覚三) |
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誕生日 | 1863年2月14日 |
没日 | 1913年9月2日(享年52歳) |
生地 | 武蔵国横浜 |
没地 | 新潟県赤倉温泉にある 自身の山荘 |
配偶者 | 岡倉元子 |
埋葬場所 | 東京都豊島区・染井墓地 |
岡倉天心の生涯をハイライト
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岡倉天心は1863年、横浜に生まれました。実家が貿易商店だったため天心も小さなころから英語を習っていて、欧米の人々と互角に渡り合えるほど堪能でした。また、9歳のときに預けられた寺の住職が、天心に漢学の基礎を教え込んでくれたことも後の仕事に大きく影響しています。
1875年に開成学校(現在の東京大学)に入学し、恩師となるアーネスト・フェノロサと出会います。その3年後には3つ年下の女性と結婚し、大学卒業後は文部省に就職。文部省に務めていたときは、フェノロサとともに古社寺や日本の伝統美術の保存に努めたり、美術教育の視察にヨーロッパを訪れたりしていました。
1890年、天心は27歳で東京美術学校の校長になり、今までの日本美術ともヨーロッパ美術とも違う、新しい日本美術の創造を目指しました。しかし、このような教育方針は保守派の人々や西洋化を目指す文部省の意向には合わず、1898年に天心は校長職を追われることとなります。

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校長を退いた天心は、ともに退職した横山大観、下村観山、菱田春草らとともに「日本美術院」という研究機関を立ち上げました。けれども経営はなかなかうまくいかず、天心はアメリカ・ボストン美術館の中国・日本美術部に招かれ、東洋美術の収集などをするようになります。日本とボストンを往復する生活を送りながら、1906年には日本美術院を茨城・五浦(いづら)の地に移し「六角堂」を建てました。
同じく1906年にニューヨークで出版したのが代表作「茶の本」です。この著作で天心は、茶道を禅や道教、華道などとの関係から広く論じました。その後もボストン美術館の東洋部長として活躍し、1913年、天心は52歳で生涯を終えました。
岡倉天心の代表作「茶の本」
1906年に岡倉天心がニューヨークで出版した代表作「茶の本」は、彼が「日本文化の真髄」ととらえた茶道を、欧米の読者にわかりやすい解釈で丁寧に論じた著作です。全編を通して英語で書かれたこの本では、茶道を「総合芸術」ととらえることにより、そのなかに貫かれる「茶の心」「茶の哲学」の重要性を訴えました。
「茶の本」は次のような構成になっています。
- 第1章 人間性の一碗
- 第2章 茶の流派
- 第3章 道教と禅
- 第4章 茶室
- 第5章 芸術の鑑賞
- 第6章 花
- 第7章 真の茶人とは
英語が堪能で、海外での生活も経験していた天心だったからこそ「茶の本」を単なる日本礼賛にとどめることなく今でも世界各地で読み継がれる名著にできたといえます。
岡倉天心とフェノロサ

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岡倉天心は、アーネスト・フェノロサとともに日本美術の保存に努めたことで知られています。フェノロサは1853年生まれの「お雇い外国人」で、当時は開成学校で政治学などを教えていました。天心は1875年に開成学校に入学し、英語が堪能だったためフェノロサの助手を務めるようになります。
フェノロサの専門は政治学や哲学でしたが、来日してから廃仏毀釈の波にのまれて日本の仏教美術が打ち捨てられていく有様を目にし、日本の美術行政、文化財保護行政に関わるようになりました。1884年からは文部省の図画調査会委員に任命され、天心らと近畿地方の古社寺を訪れて回ります。法隆寺・救世観音菩薩像を200年ぶりに開いた有名なエピソードもこの頃のものです。
フェノロサはアメリカに帰国後、ボストン美術館の東洋部長として日本美術を紹介。フェノロサが退任した後、後を継いだのが天心です。天心は恩師が就いていたポストで、東洋美術の収集や講演会、執筆を精力的に行いました。
茨城・五浦の「六角堂」を拠点に活動

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1903年に茨城の景勝地・五浦(いづら)の地を訪れた天心は、とても気に入って1905年には六角形の朱塗りの建物「六角堂」を作りました。天心はここを「観瀾亭(かんらんてい)」と呼び、夏には波音を聴きながら思索にふけったといいます。この頃、天心は夏は五浦、冬はボストンという日本とアメリカを往復する生活を送っていました。
1906年に自身の主宰する「日本美術院」を移転させました。日本美術院は天心が目指した「新しい日本美術」の研究機関で、彼は五浦で弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと共同生活を送りました。2011年の東日本大震災の津波により、六角堂は流失してしまいましたが、多くの人々の協力もあって翌年には再建されました。
岡倉天心の功績
功績1「日本の伝統美術の価値を認めた」

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明治時代、文明開化を迎えた日本は急速に欧米の文化を吸収していました。外国文化の取り入れに必死となるあまり、これまで築いてきた日本の伝統は軽んじられ、日本美術の貴重な作品は顧みられなくなったのです。
そんな当時の現状に目をとめた天心は、フェノロサとともに日本美術の保存活動に注力。天心が文部省に務めていた頃は2人で古社寺を訪れて回り、仏像や宝物を調査しました。
功績2「近代日本美術の発展に力を尽くした」

出典:UAG美術家研究所
岡倉天心は、従来の日本美術やヨーロッパ美術とは違う「新しい日本美術」を創造しようとしました。彼が校長を務めた日本美術学校では、仏師などの職人を教師として雇い、絵画をはじめとする「純粋芸術」と彫刻・蒔絵のような「装飾芸術」の境界をなくそうと試みます。
校長職を辞めた後は、自身が結成した研究機関「日本美術院」で近代日本美術の発展を目指しました。天心は趣味程度にしか絵を描きませんでしたが、弟子の横山大観らに制作のヒントを与えることはできたようです。当時、大観らの新しい画風は「朦朧体」と呼ばれ非難の的となりましたが、現在では「近代日本美術の代表作」となっています。
功績3「東洋の美術・文化を欧米に紹介した」

出典:LOOHCS(ルークス)
英語が堪能だった天心は、海外に向けて日本美術や東洋思想を紹介しました。1903年には「東洋の理想」、1904年には「日本の覚醒」、そして1906年には「茶の本」を出版しています。これらの著作はすべて英語で書かれ、最初にロンドンやニューヨークの出版社から刊行されました。
また、天心はボストン美術館の東洋美術部長として美術品のカタログを作ったり、講演会を開いたりしました。「天心のせいで日本の貴重な美術品が海外に流出した」という人もいますが、天心がいなかったらこれらの作品は跡形もなかったかもしれません。天心は貴重な美術品を海外に移すことで、作品を守り、アメリカに日本やアジアの文化を広めました。
岡倉天心の名言
本当の美しさは、不完全を心の中で完成させた人だけが見出すことができる。
The real beauty can be found by those who have completed the imperfection in the spirit.
原文
「茶の本」の一節です。茶道と日本美術について論じられているこの本では、芸術作品は鑑賞者と一体化することで完成するとされています。天心は、作品が単体で置かれているときは未完成であるので、不完全な芸術作品を心の内で完成させることが本当の美しさの発見につながる、と述べました。
アジアは1つである。
Asia is one.
原文
「東洋の理想」の最初の一文です。天心は日本という国を「西洋と日本」という図式ではなく、「アジアの中の日本」ととらえていました。けれどもこの一文は、太平洋戦争中に「大東亜共栄圏」という思想を支える政治的スローガンとしても使われていました。
われわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。
Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war.
原文
「茶の本」の一節です。「文明国」を名乗りながら悲惨な戦争を繰り返す欧米諸国に、天心は「NO」を突きつけました。このように戦争を嫌った天心ですから、先ほどご紹介した名言「アジアは1つである」が日本のアジアへの侵略を美化するために使われたと知ったらどんなに悲しんだでしょう。
岡倉天心の人物相関図

近代日本画の父・狩野芳崖を中心とした人物相関図です。日本画の価値を認めていた岡倉天心やフェノロサと出会ったことで、芳崖は近代日本画のトップバッターを飾ることができました。