岡倉天心の生涯年表
1863年 – 0歳「武蔵国横浜に誕生」
福井藩士の家の次男として生まれる
岡倉天心は1863年2月14日、現在の神奈川県横浜市本町に生まれました。父は岡倉勘右衛門、母は岡倉このといいます。父の勘右衛門は福井藩の下級武士でありながら商売の才能があったため、福井藩から命を受けて、横浜で生糸を扱う貿易商店を営んでいました。
天心の本名は「岡倉覚三」といいます。生まれたときに両親からつけられた名前は「角蔵」で、自宅の角にあった蔵で生まれたという理由でつけられた名前でした。ところは天心は「角蔵」という名を嫌い、大学生の時には「覚三」という表記に改名していたといわれています。
「天心」という名は雅号で、海外では「Kakuzo Okakura」という本名で知られています。「天心」も「覚三」も、道教思想の影響を受けてつけられたといわれていますが、本当のところは定かではありません。
藍謝堂で英語を学ぶ
天心の実家は生糸を扱う貿易商店だったため、英語を話す機会がたくさんありました。そのため、天心も5歳から横浜に合った私塾・藍謝堂(高島学校)に通い、英語を学びました。
天心は岡倉家の次男でしたが、兄の港一郎は脊椎カリエスを患っていて、跡を継げる状態ではありませんでした。天心は家業を継ぐために英語を学んでいたと考えられます。
母を亡くし長延寺に預けられる
天心が9歳のとき、妹の蝶子が生まれました。けれども母・このが産褥熱のため37歳で亡くなってしまいます。母の死去がきっかけとなって、天心は母の葬儀をあげた菩提寺・長延寺に預けられることになりました。
天心は長延寺の玄導和尚から、「論語」「孟子」など漢学の基礎を学びました。一方、藍謝堂での英語の勉強も続けていたといわれています。漢学と英語を幼い頃から学んでいたという経験が、大人になってからの天心の活動の素地になったのでしょう。
1875年 – 13歳「開成学校に入学」
フェノロサと出会う
岡倉天心は1875年、13歳で開成学校(現在の東京大学)に入学しました。ここで出会ったのが恩師であるアーネスト・フェノロサです。フェノロサは開成学校で政治学や経済学を教えているお雇い外国人でした。
フェノロサはアメリカ人でありながら、文明開化の影響で日本の伝統的な美術作品が見捨てられていくのに心を痛め、日本美術の保存に尽力した人物です。天心は英語が堪能だったこともあり、フェノロサの通訳兼助手を務めるようになりました。そして、恩師の影響を受けた天心は生涯にわたって日本の伝統美術の保存・発展に力を尽くすことになるのです。
16歳で結婚
1879年、天心は16歳で結婚しました。相手は3つ年下の大岡元子(「基子」という表記も)という女性です。2人は赤坂の茶会で知り合い、元子はそのころ天心の実家が経営していた「岡倉旅館」で働くようになった後に結婚しました。
元子との間には息子・娘が1人ずつ生まれました。長男の岡倉一雄は朝日新聞の記者になり、「父 岡倉覚三」という天心の伝記を出版しました。長女の高麗子(こまこ)は鉄道省に勤める米山辰夫という男性に嫁ぎ、転勤の多かった夫に伴って暮らしています。
1880年 – 20歳「文部省に就職」
フェノロサとともに日本美術を調査
東京大学(開成学校が1877年に改編)を卒業後、岡倉天心は文部省に就職しました。ここで天心は恩師・フェノロサなどとともに日本美術の保存に尽力します。フェノロサに付いて京都や奈良の古社寺を訪れ、その価値を確認して回りました。
天心とフェノロサは1884年、200年間公開されてこなかった法隆寺夢殿の秘仏・救世観音菩薩像の公開にこぎつけました。夢殿厨子と救世観音の調査のため法隆寺に求めたもので、長い交渉が必要だったといわれています。菩薩像は450メートルもの布でぐるぐる巻きにされていて、保存状態はきわめて良好でした。
当時の上司・九鬼隆一の妻と不倫
文部省での天心の上司に、九鬼隆一という人物がいました。彼は文部省補で、また帝国博物館の館長を務めたこともある官界・美術界に大きな影響力をもっていた人物です。天心のよき後援者でもあったのですが、あろうことか天心は九鬼の妻・波津子と不倫関係に陥りました。
波津子は九鬼と別居し後に離婚するのですが、九鬼の子供を妊娠していました。離婚後に生まれたその子供が著書「いきの構造」で知られる哲学者・九鬼周造です。周造は子供の頃、たびたび家を訪ねてくる天心を自分の父親なんだろうと考えたこともあった、と後に回顧しています。
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