岡倉天心はどんな人?生涯・年表まとめ【思想や名言、作品も紹介】

岡倉天心の名言

本当の美しさは、不完全を心の中で完成させた人だけが見出すことができる。 

The real beauty can be found by those who have completed the imperfection in the spirit. 

原文

「茶の本」の一節です。茶道と日本美術について論じられているこの本では、芸術作品は鑑賞者と一体化することで完成するとされています。天心は、作品が単体で置かれているときは未完成であるので、不完全な芸術作品を心の内で完成させることが本当の美しさの発見につながる、と述べました。

アジアは1つである。

Asia is one. 

原文

「東洋の理想」の最初の一文です。天心は日本という国を「西洋と日本」という図式ではなく、「アジアの中の日本」ととらえていました。けれどもこの一文は、太平洋戦争中に「大東亜共栄圏」という思想を支える政治的スローガンとしても使われていました。

われわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。

Fain would we remain barbarians, if our claim to civilization were to be based on the gruesome glory of war. 

原文

「茶の本」の一節です。「文明国」を名乗りながら悲惨な戦争を繰り返す欧米諸国に、天心は「NO」を突きつけました。このように戦争を嫌った天心ですから、先ほどご紹介した名言「アジアは1つである」が日本のアジアへの侵略を美化するために使われたと知ったらどんなに悲しんだでしょう。

岡倉天心の人物相関図

出典:求龍堂

近代日本画の父・狩野芳崖を中心とした人物相関図です。日本画の価値を認めていた岡倉天心やフェノロサと出会ったことで、芳崖は近代日本画のトップバッターを飾ることができました。

岡倉天心にまつわる逸話

逸話1「東大の卒業論文を2週間で書き上げる」

夫婦喧嘩で卒業論文を焼かれた天心は…
出典:Pixabay

1878年、開成学校(現在の東京大学)在学中に16歳で結婚した岡倉天心。卒業間際に3歳年下でその頃妊娠していた妻・元子と喧嘩し、せっかく書いていた卒業論文「国家論」を焼かれてしまいます。困った天心は2週間で別の内容の卒業論文「美術論」を書き上げ、無事に卒業したそうです。

2週間で卒業論文を書き上げたのもすごいですが、実は一晩で完成させたという説もあります。天心はこのエピソードを気に入っていたのか、よく子供たちに話して聞かせていたそうです。

逸話2「奔放な恋愛遍歴」

妻がいるにもかかわらず、奔放な恋愛を続けた
出典:Pixabay

岡倉天心は恋愛好きだったのか、16歳で結婚したにもかかわらず何度も不倫を重ねていました。

1888年には文部省で天心の上司だった九鬼隆一の妻・波津子と不倫関係に陥っています。九鬼との子供を妊娠していた波津子は九鬼と別居し、後に離縁しました。離婚後に生まれた子供が後の哲学者・九鬼周造です。

東京美術学校の校長だった頃には、天心の異母姉の娘、つまり姪の八杉貞と不倫をしていました。2人の間には子供が生まれたのですが出産後に貞が自殺未遂を起こし、すぐに別の家に預けられています。このような「私生活の乱れ」も、東京美術学校長の職を追われる一因となりました。

亡くなる前年にインドを訪れたときには、女性詩人プリヤンバダ・デーヴィーと恋に落ちています。2人は手紙を交わして愛を深め、天心が亡くなるまで関係を続けました。このときの書簡集は「宝石の声なる人に―プリヤンバダ・デーヴィーと岡倉覚三*愛の手紙」という本に収められています。

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