岡倉天心とフェノロサ
岡倉天心は、アーネスト・フェノロサとともに日本美術の保存に努めたことで知られています。フェノロサは1853年生まれの「お雇い外国人」で、当時は開成学校で政治学などを教えていました。天心は1875年に開成学校に入学し、英語が堪能だったためフェノロサの助手を務めるようになります。
フェノロサの専門は政治学や哲学でしたが、来日してから廃仏毀釈の波にのまれて日本の仏教美術が打ち捨てられていく有様を目にし、日本の美術行政、文化財保護行政に関わるようになりました。1884年からは文部省の図画調査会委員に任命され、天心らと近畿地方の古社寺を訪れて回ります。法隆寺・救世観音菩薩像を200年ぶりに開いた有名なエピソードもこの頃のものです。
フェノロサはアメリカに帰国後、ボストン美術館の東洋部長として日本美術を紹介。フェノロサが退任した後、後を継いだのが天心です。天心は恩師が就いていたポストで、東洋美術の収集や講演会、執筆を精力的に行いました。
茨城・五浦の「六角堂」を拠点に活動
1903年に茨城の景勝地・五浦(いづら)の地を訪れた天心は、とても気に入って1905年には六角形の朱塗りの建物「六角堂」を作りました。天心はここを「観瀾亭(かんらんてい)」と呼び、夏には波音を聴きながら思索にふけったといいます。この頃、天心は夏は五浦、冬はボストンという日本とアメリカを往復する生活を送っていました。
1906年に自身の主宰する「日本美術院」を移転させました。日本美術院は天心が目指した「新しい日本美術」の研究機関で、彼は五浦で弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと共同生活を送りました。2011年の東日本大震災の津波により、六角堂は流失してしまいましたが、多くの人々の協力もあって翌年には再建されました。
岡倉天心の功績
功績1「日本の伝統美術の価値を認めた」
明治時代、文明開化を迎えた日本は急速に欧米の文化を吸収していました。外国文化の取り入れに必死となるあまり、これまで築いてきた日本の伝統は軽んじられ、日本美術の貴重な作品は顧みられなくなったのです。
そんな当時の現状に目をとめた天心は、フェノロサとともに日本美術の保存活動に注力。天心が文部省に務めていた頃は2人で古社寺を訪れて回り、仏像や宝物を調査しました。
功績2「近代日本美術の発展に力を尽くした」
岡倉天心は、従来の日本美術やヨーロッパ美術とは違う「新しい日本美術」を創造しようとしました。彼が校長を務めた日本美術学校では、仏師などの職人を教師として雇い、絵画をはじめとする「純粋芸術」と彫刻・蒔絵のような「装飾芸術」の境界をなくそうと試みます。
校長職を辞めた後は、自身が結成した研究機関「日本美術院」で近代日本美術の発展を目指しました。天心は趣味程度にしか絵を描きませんでしたが、弟子の横山大観らに制作のヒントを与えることはできたようです。当時、大観らの新しい画風は「朦朧体」と呼ばれ非難の的となりましたが、現在では「近代日本美術の代表作」となっています。
功績3「東洋の美術・文化を欧米に紹介した」
英語が堪能だった天心は、海外に向けて日本美術や東洋思想を紹介しました。1903年には「東洋の理想」、1904年には「日本の覚醒」、そして1906年には「茶の本」を出版しています。これらの著作はすべて英語で書かれ、最初にロンドンやニューヨークの出版社から刊行されました。
また、天心はボストン美術館の東洋美術部長として美術品のカタログを作ったり、講演会を開いたりしました。「天心のせいで日本の貴重な美術品が海外に流出した」という人もいますが、天心がいなかったらこれらの作品は跡形もなかったかもしれません。天心は貴重な美術品を海外に移すことで、作品を守り、アメリカに日本やアジアの文化を広めました。
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