1890年 – 29歳「東京美術学校校長となる」
職人を教員として採用
1890年、岡倉天心は東京美術学校の校長に就任しました。その3年前、天心はフェノロサとともに美術教育の調査のためヨーロッパ各国を視察して回りました。その結果、ヨーロッパでは絵画のような「純粋芸術」と装飾品のような「装飾芸術」の間が線引きされていることが近代美術の問題点になっていると突き止めました。
天心はそのような線引きのない新しい美術教育を目指し、仏師や工芸家など職人を教員として採用しました。学校教育を行う場所に職人を採用するというのは当時としては異例のことです。天心は木彫家・高村光雲などの「職人」を日本画家・横山大観らとともに雇うことで、ヨーロッパの近代美術にあった線引きのない「新しい日本美術」を作り出そうとしました。
横山大観、下村観山などを育てる
新しい日本画の創出を目指した天心は、当時新人画家だった横山大観、下村観山、菱田春草ら現在「近代日本画の代表」として語られる画家たちを育てていきました。また、天心が日本美術学校で3年間行った日本美術史の講義は、日本の美術史学の基礎となっています。
1898年 – 37歳「東京美術学校を辞職し『日本美術院』を結成」
「私生活の乱れ」で職を追われる
新しい日本美術を作り出すことに熱心だった天心は、伝統的な日本美術を大切にする保守派の人々から強い反感を買っていました。加えて、日本美術学校創設に力を尽くしてくれた文部省の上司・九鬼隆一の妻との不倫、さらに天心自身の姪・八杉貞との不倫など度重なる「私生活の乱れ」もあり、天心の心証はかなりよくないものでした。
さらに、明治当時の日本は開国したばかりでとにかくヨーロッパの文化を取り入れようと躍起になっていました。文部省も西洋美術に力を入れたいと考えていましたが、校長である天心の方針とは合いません。このようなさまざまな事情が重なって、公には「私生活の乱れ」を理由に天心は校長の職を追われることになりました。
横山大観らを連れて日本美術院を結成
日本美術学校を罷免退職した天心は、彼にともなって辞職した横山大観、下村観山、菱田春草らとともに「日本美術院」を結成しました。西洋化の波にのまれていた当時の日本において「新しい日本美術」を発展させることを目的とした研究団体です。
結成当時から地方での展覧会を積極的に催し、雑誌「日本美術」などを刊行して新しい日本美術の普及に務めました。古社寺の国宝を修繕したり、研究会を発足したり、天心の指導でさまざまな活動に取り組んでいます。
そのような活動をしながら制作に打ち込んでいましたが、大観・春草らが考案した色彩の濃淡によって空気や光を表現する技法は世間から「朦朧体」と呼ばれ、厳しいバッシングを受けました。
1901年 – 40歳「インド旅行」
「東洋の理想」を執筆
日本美術院の運営がなかなかうまくいかなかったためか、天心は1901年から翌年にかけてインドを旅行します。インドでは詩人でアジア人初のノーベル文学賞受賞であるラビンドラナート・タゴールや、著名なヨガ指導者・ヴィヴェーカーナンダと交友しました。
8か月間の滞在中、天心は英語での初めての著作「東洋の理想」を執筆しています。「東洋の理想」は1903年にロンドンで出版され、翌年には「日本の覚醒」も刊行しました。
1904年 – 43歳「ボストン美術館の中国・日本美術部に職を得る」
恩師・フェノロサの跡を継ぐ
日本美術院の経営に行き詰っていた天心は、結成当時も支援してくれたアメリカの日本美術研究者・ビゲローに手紙を送ります。ビゲローはフェノロサとともに来日した人物で、帰国後にアメリカ・ボストン美術館の理事に就任していました。天心はビゲローから「ボストン美術館で東洋美術の作品を集める仕事をしないか?」と打診を受けます。
実はこの仕事、元々はアメリカに帰国したフェノロサが担っていたものでした。けれどもフェノロサは秘書と不倫関係に陥り、職を追われていたのです。当時のボストンはピューリタンの影響が色濃く残っている場所で、不倫などとても許される雰囲気ではありませんでした。
天心はビゲローの申し出を受け入れ、ボストン美術館で美術品の収集とカタログ作成を始めます。美術館関係者が、フェノロサと同じように天心も「私生活の乱れ」で日本美術学校の職を追われたことを知っていたら、また違った展開になっていたかもしれません。
1906年 – 46歳「『茶の本』出版」
日本や東洋の文化を欧米に紹介
1906年、岡倉天心は後に代表作といわれる「茶の本」を出版しました。「茶の本」は、当時ボストン美術館にあったグループ「柳の婦人会(ウィロー・レディース)」に対して天心が行った講話の内容をもとにしたといわれています。この婦人会は東洋美術の漆器や金工品などを入れる絹袋を縫ってもらうために天心がボストンの婦人たちを集めたものでした。
「茶の本」の初版には、「ラ・ファージ先生へ」という献辞が添えられています。ジョン・ラ・ファージはアメリカの画家で、来日した際に天心とフェノロサとともに日光で過ごしたことが縁で親しくなりました。ラ・ファージと天心は親子ほどの年の差がありながら、互いに尊敬しあう関係だったようです。
日本美術院を茨城・五浦に移す
1906年には、それまで東京・谷中にあった日本美術院を茨城・五浦の地に移しています。当時の日本美術院は第1部(絵画)、第2部(彫刻)に分かれていて、五浦に移ってきたのは横山大観ら第1部の面々でした。フランス・バルビゾン村に自然主義の画家たちが集まっていたことから、天心は五浦を「東洋のバルビゾン」にするのを目指していました。
天心自身の活動が忙しくなったためか、この頃から日本美術院の活動は衰えていきます。再び活発になるのは天心の死後、1914年ごろからです。現在では公益財団法人となり、「院展」と呼ばれる日本画の公募展を催しています。
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