第二次世界大戦の原因やきっかけは?当時の各国の状況も詳しく紹介

6.ヴェルサイユ体制が崩壊した事

国際連盟本部
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第二次世界大戦前は“ヴェルサイユ体制”と呼ばれる、ドイツ封じが目的の国際体制を敷いていました。そして「国際連盟」を作り世界平和を目指していましたが、ヒトラーが掌握したドイツは禁止されていた再軍備化をすすめ、1933年に国際連盟を脱退します。

同じ1933年に、日本も国際連盟を脱退します。国際連盟から満州国の独立が認められず、満州国を承認できないと決議されたためでした。

エチオピア戦争でのイタリア軍、イタリアも領土を広げようとした
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最後にイタリアも1935年にエチオピア戦争が勃発。エチオピアは国際連盟の加盟国だったために当然批判される中、1936年にエチオピアを併合。しかし国際連盟を中心に批判が止まず、1937年に国際連盟を脱退しました。

日独伊三国同盟を記念した三国の国旗
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国際的に孤立を深めた「持たざる国」の三国は、日独伊三国防共協定を結びます。これによりヴェルサイユ体制は崩壊しました。そして1940年には「日独伊三国同盟」が結ばれ、枢軸国の基盤が出来上がってしまったのです。

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第二次世界大戦に至る枢軸国の背景

凱旋門を通るドイツ兵、世界経済の不安定により国同士の弱肉強食的思想が芽生え始めていた
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日・独・伊の枢軸国の動向が第二次世界大戦の開戦に大きく影響を及ぼしました。「持たざる国」である三国がどのように戦争へと向かっていったのか?背景を簡単に解説します。

ドイツの場合

賠償金と世界恐慌による経済破綻

演説するヒトラー、疲弊するドイツに急速にナチ党は進出していった
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第一次世界大戦で敗戦したドイツは多額の賠償金を戦勝国に支払っていました。しかし無理な金額のために返済が滞り、1923年にフランスがドイツのルール地方を差し押さえのために占拠。それにより、元々インフレ気味だったドイツは異常な「ハイパーインフレーション」状態に陥ってしまいました。

街頭演説するヒトラー
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そして1929年の世界恐慌にとどめを刺され、ドイツは失業者の増加と企業の倒産が相次ぎます。そういった時に台頭してきたのが、ヴェルサイユ条約の打破・共産主義者やユダヤ人を敵視するヒトラーが率いるナチ党でした。そして1933年にはヒトラーは首相に任命され、基本的人権を停止し、他の抵抗勢力を奪い独裁政権を敷いたのです。

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独裁者ヒトラーの台頭

ヒトラー率いる1920年代頃のナチ党の様子
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ドイツの経済破綻の頃から急速に、ヒトラー率いるナチ党が台頭していきました。当初ナチ党は無名の弱小な党でしたが、ヒトラーは得意の演説で人々の心を掴んでいき、特に下位中産階級(農民などの庶民)を中心に熱烈に指示されるようになっていきます。

第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を負い、その上世界恐慌の影響により経済が破綻した状況に、ドイツ国民の心は追い詰められた状態でした。そんなドイツ国民の心の隙間に入り込むように浸透していったのが、ヒトラー率いるナチ党だったのです。

ヒトラー内閣発足時の官僚たち
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ナチ党を指導するヒトラーは、ヴェルサイユ条約で課された巨額の賠償金を支払わず、再軍備を強化することを目的としていました。そしてファシズム主義に国を舵取りし、最終的に「皆が幸福になるために国家の繁栄に奉仕しよう」という「極右の社会主義思想」のような考え方を説いていったのです。

最初は嘲笑されていたヒトラーの演説ですが、徐々に多くの国民が賛同していき、ナチ党は1932年には選挙で33%の票を獲得。1933年にはヒトラーは首相に任命され、ドイツ国民は「彼こそはドイツの救世主」と熱烈に信じたのです。

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ミュンヘン会談の影響

ミュンヘン会談の参加者の写真
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第二次世界大戦の大きなきっかけとなったのが、1938年に行われた「ミュンヘン会談」です。イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が集まっての会談でした。ドイツがドイツ人の多く住むチェコスロバキアのズデーテン地方を割譲するように要求。結果的にイギリスの宥和政策の一環で、ズデーテン地方はドイツに併合されます。

ドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民
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この会談の背景にはイギリスがソ連を警戒していたために、ドイツや日本にソ連を抑えさせようという思惑があったといわれています。そのことはヒトラーも承知しており、イギリスがソ連を警戒している限り、自分の要求が通ると考えていました。そしてズデーテン地方を併合できたことで、確信と変わっていったのです。

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チェコ代表不在の理不尽な領土取り決め

チェコスロバキア大統領・エドヴァルド・ベネシュ
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ミュンヘン会談でズデーテン地方を併合したドイツでしたが、この会議の出席者に大きく問題がありました。まず当事者であるチェコ代表のベネシュ大統領が、会議に呼ばれていなかった点です。

チェコはフランスと相互援助条約を結んでいましたが、会議に呼ばれなかったことを怒ったチェコは、フランスとの関係を解消してしまいます。ドイツにとって、チェコとフランスが手を切ったことは好都合でした。

ソビエトの指導者・ヨシフ・スターリン
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そしてフランスと同盟関係にあったソビエト連邦も、会議に呼ばれませんでした。そのためソビエトの最高指導者スターリンもフランスとの決別を決め、ドイツに接近していくようになります。

当時まだ下院議員であり、次期イギリス首相のチャーチルは、この知らせを聞いて「第二次世界大戦は避けられないだろう」と嘆いたといわれています。

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3 COMMENTS

匿名

とても分かりやすかったです!
できれば、戦後の日本について紹介してくれませんか?

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匿名

資本主義はいずれああなる、市場をもとめて拡張する。日本も三菱の経営のために海外拡張してた。そしてドイツを破ったのはソ連だった、まるで社会主義が資本主義より優越というイメージできた。だから世界の社会主義を封じるため、冷戦を進める米国の一部。日本も実際戦後は冷戦植民地となったわけだ。<ポツダム宣言>に戦後日本の新政府の成立のあと連合国名義で駐在する占領軍全部撤退と明記したが。ルーズベルト大統領は冷戦する気なく、ソ連の配慮してたと考える。しかし戦後まで生きられなかった。

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